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まとまった考えが浮かんだら書いています

音楽は言葉で語れるか? ~分析と直観について~

音楽を言葉で語ることについて考えてみたい。

 

 

初めに言っておくが、音楽を完全に言葉で語ることはできないはずである。もしそれが可能ならば、音楽は必要ないからだ。しかし、だからといって、音楽は言葉で語れない、ただ感性の趣くままに捉えるだけだ、と考えるのは不十分だ。実のところ、音楽を味わい、いい演奏をするためには、ひたすら感性を鍛えるしかない、と考えている人は多いのだが、これでは音楽を理解するということに対する思考が停止している。感性を鍛えるとはどういうことなのか?

 

 

岡田暁生氏が『音楽の聴き方』(中公新書)で、「音楽の少なからぬ部分は語ることが可能である」という立場に立ち、音楽を聴くという行為に徹底的に踏み込んだ記述をしている。その一方で、「相性だの嗜好だの集団的な価値観の違いだのといったことを突き抜けた、有無を言わせぬ絶対的な価値の啓示」が存在するところに音楽を聴く価値があり、「身体の記憶の中に『打ち震えた』経験を持たない人に対して、言葉はほとんど用をなさない」として、音楽体験の原点にこうした「突き抜けた体験」が必要だとも書いている。これは一見すると矛盾することを言っているように思われるが、そうではない。これはどういうことか?

 

  

 

私の考えでは、多くの人が、分析と直観という二つのものを、うまく使えていない。音楽は言葉で語れないから、ただ感性に頼るしかない、というall or nothingの発想に問題がある。たとえ音楽そのものは言葉では語れないとしても、言葉を使って音楽そのものに近づくことはできる。そうして音楽そのものに可能な限り近づいておいて、最後の最後に直観によって、音楽そのものにジャンプする。人間には、そういう能力が備わっている。これが、感性によって音楽を捉えるということだ。

 

 

 

言葉で語るとは、対象を分けて区別することであり、それは分かることにつながる。それが分析である。一方直観とは、ある対象を、それ自体を分けることなくして直接に捉えることである。対象をどれだけよく分析できるかが、直観によってどれだけうまく音楽そのものを捉えることができるかの鍵を握っている。そして、対象をよく分析できれば、直観によって音楽そのものを捉えるのは、決して難しいことではない。それは意外にも、頭を抱えるほどのことではない。むしろその地点までくれば、対象を自然に捉えられる。私は素直にそう考えている。

 

 

 

音楽に興味を持つ、という動機づけに、「突き抜けた体験」は必要だ。しかし、一度興味を持った音楽に対しては、分析と直観により、さらに踏み込んでいく。これは別のプロセスだ。そして、このプロセスが、我々に音楽そのものを捉える契機となり、音楽に対するさらなる楽しみを与える。

 

 

 

それでも、何をもって音楽そのものを捉えたといえるのか、という疑問が存在するだろう。それに対しては、明確な判断基準を示すことは難しい。分かったと思えばそれが自分にとっての理解である。そしてその理解はその人の信念を形成する。確かに信念というのは危険なものだ。しかし、その人はその時点での自分の理解に責任を持つしかない。それは仕方のないことだ。幸いなことに、人それぞれの理解度は比較できる。より深く理解している人というのは確かに存在する。そのような人から新たに学ぶことがあれば、そうすればよい。結局、人は向上心を持ち続けることが必要だという程度のことを、私は思っている。

 

ヴァレリー・アファナシエフ ピアノリサイタル 2013年6月23日 びわ湖ホール

 

これが真のロシアピアニズムなのか。アファナシエフの本領はここにあったのか。圧倒的な演奏だった。

 

 

 

〈プログラム〉

 

ドビュッシー 前奏曲集第1巻 雪の上の足跡、沈める寺

 

プロコフィエフ 風刺Op.17 第2番 間のびしたアレグロ

 

ショスタコーヴィチ 24の前奏曲より、 第14番 変ホ短調

 

プロコフィエフ 風刺Op.17 第1番 嵐のように

 

ドビュッシー 前奏曲集第1巻 沈める寺

 

 

 

後半

 

音楽劇≪展覧会の絵≫ (作曲:ムソルグスキーアファナシエフ自作自演)

 

 

 

アファナシエフというと、「極端に遅いテンポによる演奏で曲の深淵に潜むドラマをあぶり出す」(チラシ)といったイメージ。CDを聴いても実際そういう演奏をしていた。しかし、今回はそういう彼のイメージが変わる演奏会だった。彼はやはりロシア人なのだということを思った。

 

 

 

前半。ぎすぎすしたリズム、シニカルな諧謔。こういったプロコフィエフショスタコービッチの醍醐味を、彼の大きな手と華麗な技巧が奏でる演奏で堪能した。これは本当にすごい演奏だった。それと、不思議なことに、こういった曲を演奏する彼に親しみさえ感じた。

 

 

 

ギレリス(彼の先生だ)、リヒテルといったソ連の大ピアニストにありがちな、ちょっと傍若無人というか、ぶっきらぼうでスマートではない感じ(あくまで音楽についてだ)の遺伝子を、アファナシエフは受け継いでいる。まさに目の前に「ロシアピアニズム」がいた。

 

 

 

後半の「展覧会の絵」の自作劇については、プロムナードでつながれたこの組曲を、何曲か演奏しては言葉と演技の世界に戻るという繰り返しで聴くのは、この組曲の本来の聴き方に近いのかもしれないということを思った。はじめのプロムナードをけっこう細かく変化をつけて弾いているのは面白かった。フォルテが本当に力強く鳴ることに驚いた。やはり彼の大きな手と華麗な技巧だ。こんなすばらしい「展覧会の絵」を他で聴けるだろうか?

 

 

 

アファナシエフのドキュメンタリー(NHK

 

「漂泊のピアニスト アファナシエフ もののあはれを弾く」

https://www.youtube.com/watch?v=vKPjvGJELB4 (part1。以降part4まである)

 

 

 

 

 

古管尺八のCD 能 武満徹

私の持っている尺八のCDがとにかくよい。

 

浜松市楽器博物館 コレクションシリーズ6

古管尺八1 ~音の表情~(CD)

http://www.amazon.co.jp/%E5%8F%A4%E7%AE%A1%E5%B0%BA%E5%85%AB1~%E9%9F%B3%E3%81%AE%E8%A1%A8%E6%83%85-%E6%B5%9C%E6%9D%BE%E5%B8%82%E6%A5%BD%E5%99%A8%E5%8D%9A%E7%89%A9%E9%A4%A8%E3%82%B3%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BA6-%E5%BF%97%E6%9D%91%E5%93%B2/dp/B000AQDJPC

 

 「虚空」という曲の初めの音は、出されるとともに長くのばされ、そして沈黙へと消えていく。すると、今の音は、実は沈黙からものすごいエネルギーと緊張感を持って生み出された音だったのだと気付き、はっとする。

 

厳しい音楽だ。私はこんなことを思い出す。最近能を見たのだ、と私が祖父に言ったところ、祖父は「能は厳しいからな」と言った。能は難しいからな、ではなく。それが妙に印象に残っている。

 

武満徹の著作集を読んでいる。そして、彼のピアノ曲も弾いている。武満はあの有名な「November Steps」を書いた。彼の言葉が強く響いてくる。 

 

…日本においては一つの音が“さわり”を持っている。つまり騒音的である。西洋の音に比べて非常に複雑で、一つの音の中にたくさんの音が運動していると言ってもいいと思うのです。

(「さわりについて」)

 

音楽は、音か沈黙か、そのどちらかである。私は生きる限りにおいて、沈黙に抗議するものとしての<音>を択ぶだろう。

 それは強い一つの音でなければならない。

 私は、音楽のみがかれない原型を提出することが作曲家の仕事ではないかと考えている。

 私は余分の音を削り取って、確かな一つの音を手にしたい。

(「自然と音楽―――作曲家の日記」)

 

 私はまず音を構築するという観念を捨てたい。私たちの生きている世界には沈黙と無限の音がある。私は自分の手でその音を刻んで苦しい一つの音を得たいと思う。そして、それは沈黙と測りあえるほどに強いものでなければならない。

(「自然と音楽―――作曲家の日記」)

 

 

科学が悪いのではなく、科学がどういう性質のものか分かっていないのが悪いのだ

小林秀雄の「科学する心」(You Tube

https://www.youtube.com/watch?v=X2ZA6x9fFtk

 

科学が悪いのではなく、科学がどういう性質のものか分かっていないのが悪いのだ。科学では何ができるのかを理解し、それをうまく使うことだ。

 

科学的内容を単に分かり易く解説するだけでは十分な教育ではない。科学で分かること、分からないことをこそ教えるべきである。科学は価値判断をしない。ただ計算結果が出るだけだ。科学の利用には我々の価値判断が必要だということを分からなければならない。

 

 数年前に聞いた青木薫さんの講演会を思い出す。科学には限界があることを知るべきである。これは科学者の目から見れば当たり前なのだが、世間の目から見れば、スピリチュアル・超自然現象を肯定する方向へ転がってしまう。それを防がなければならない。これはなかなか難しい。

 

将棋電王戦について コンピューターは新しいことを考えることができるのか?

将棋のプロとコンピューターソフトが対戦する「電王戦」が話題となった。結果はコンピューターソフトの311分。コンピューターソフトの性能の高さを印象づけた。

 

 この結果をどうとらえようか。朝日新聞(2013423日)には、プロ側の視点として「現代将棋は研究が進み、定跡が整備されて似た進行の対局も増え、閉塞感を覚えるプロも多い。今回、定跡にない新手を繰り出し、常に最善手を求めるソフトに刺激を受けたようだ」とあり、田丸昇九段が「『将棋もプロとコンピューターが協調して無限の可能性を探求してほしい』」とコメントしていた。

 

 コンピューターは自分で新しいことを考えることができるのか、という問いがある。新聞の内容を読む限り、今回の電王戦では、コンピューターにも新手を考えることができるということが実証されたらしい。

 

 小林秀雄が「常識」(『考えるヒント』(文春文庫)収蔵、昭和34年)という文章の中で、エドガー・ポーの「メールツェルの将棋差し」という作品のことを書いている。将棋を差す自働人形の話だ。詳細は省くが、小林は「機械は、人間が何億年もかかる計算を一日でやるだろうが、その計算とは反復運動に相違ないから、計算のうちに、ほんの少しでも、あれかこれかを判断し、選択しなければならぬ要素が介入して来れば、機械は為すところを知るまい。これは常識である。常識は、計算することと考えることとを混同してはいない。将棋は、不完全な機械の姿を決して現してはいない。熟慮断行という全く人間的な活動の純粋な型を現している。」また、「『人工頭脳』を考え出したのは人間頭脳だが、『人工頭脳』は何一つ考え出しはしない」というのが「決定的な事実」だと書いている。要するにコンピューターに将棋は差せず、コンピューターには新しいことは考え出せないというのが常識だ、としている。

 

 

この食い違いをどう考えようか。私はコンピューターソフトの詳しい仕組みについては何も知らないが、一定のルールに従って駒を動かし将棋を差すことのできるソフトは、コンピューターの進歩によって作ることができた。ではコンピューターが新手を考えたということについてはどうだろうか?

 

 

これは、新しいことを考えるとはそもそもどういうことなのか、を考えてみればよいのではないかと思う。オリジナルな発想というと、我々は天から降ってきたひらめき、のように思ってしまうかもしれない。しかし、それはおそらく違う。新しいことを思いつくというのは、頭の中にある無数の知識から新しいパターンの組み合わせを見つける、ということではなかろうか。誰も、ゼロから発想をすることはできないのだ。そして、私の想像であるが、コンピューターが新手を発見したというのは、可能なパターンをしらみつぶしに読んで、そのパターンからある判断基準に従って最善の手を選んだ、というただそれだけだ。それが、人間にとっては新手に見えたのである。それは、人間の直感が無意識のうちに読みからはじいていた手であった。

 

 

そうすると、人間のように感情を持つロボット、のレベルにまではいかなくとも、これまで人間の直感が考えもつかなかった組み合わせを見つけてしまうという意味での人間にとって新しいことを考えるコンピューターというのは、実現可能なのではないか、という気がしてくる。今はそれが、一定のルールに従った将棋というゲームの中での話ではあるのだが。

 

対称性のある図形は何かがつまらない

対称性群論(数学)についての勉強をしている。対称性のある図形というのは確かに美しいのだが、何かがつまらない。勉強をしていてふとそう思った。

 

 

小林秀雄は『モオツアルト』の中で、均整とそれを破ることについてこう書いている。「誰も、モオツアルトの音楽の形式の均整を言うが、正直に彼の音を追う者は、彼の均整が、どんなに多くの均整を破って得られたものかに容易に気づくはずだ。彼は、自由に大胆に限度を踏み越えては、素早く新しい均衡を作り出す。到るところで唐突な変化が起るが、彼があわてているわけではない。方々に思いきって切られた傷口が口を開けている。独特の治癒法を発明するためだ。彼は、決してハイドンのような音楽形式の完成者ではない。むしろ最初の最大の形式破壊者である。彼の音楽の極めて高級な意味での形式の完璧は、彼以後のいかなる音楽家にも影響を与えなかった、与え得なかった。」私がこれに付け加えることは何もないのだが、音楽の美とはそういうところにもあるのではなかろうかと思い、対称性のある図形がつまらないと思ったときに、このことを真っ先に思い出したのである。

 

 今の宇宙ができたのは、物質と反物質の対称性が破れている(CP対称性の破れ)からだという(例えば『カソクキッズ』http://kids.kek.jp/comic/10/10.html)。対称性が破れているからこの世界が存在するのだという話は、いささか誇張にすぎるかもしれないが、とても示唆的だ。

 

 

 

 

理系と文系についての偏見

1、理系イメージ・文系イメージは偏見

 

 理系・文系という区分は世間で一般的である。その区分に付随して、理系のイメージ・文系のイメージというものが存在する。例えば、竹内薫(著)・嵯峨野功一(構成)『理系バカと文系バカ』(PHP新書)では、世間一般の人が思い浮かべる理系・文系のイメージとして、以下のようなものを挙げている。

 

理系=論理的、文系=情緒的

理系=細かい・几帳面、文系=アバウト

理系=オタク、文系=ゼネラリスト、もしくはミーハー

理系=横書き文化、文系=縦書き文化

理系=分類・体系化、文系=混沌混在化

理系=ファッションに無頓着、文系=オシャレに敏感

 

 これは確かに、世間一般に流布している理系・文系のイメージとおよそ一致していると思われる。しかし、少し考えれば分かるように、このようなイメージは明らかに偏見である。文系の人間は論理的でないというのだろうか?あるいは几帳面さがないというのだろうか?理系の人間にはゼネラリストがいないというのだろうか?等々。本記事で問題にしたいのは、このような理系・文系に対する偏見である。

 

 

2、本記事の柱

・理系・文系のイメージがもたらす弊害・問題点。

・理系・文系という区分に替わる新たな区分。

・そもそもなぜ理系・文系イメージの偏見が生まれたのか。

 

 

3、理系・文系のイメージがもたらす弊害・問題点

 

理系・文系イメージが、例えば「私は理系だからコミュニケーションが苦手でも仕方ない」といった類の物言いに逃げ道を与えているのかもしれない。『理系バカと文系バカ』の中で挙げられている「理系バカ・文系バカ」の例というのは、確かに共感できるところもあるのだが、理系バカ・文系バカではなく単にバカに当てはまることが多いのではないかと思う。

 

また、理系・文系のイメージは、もしかすると男・女のそれと重なっていて、理系=男性=論理的、文系=女性=感情的、となっているのかもしれない(ちなみに、こういった男・女のイメージも偏見に違いない)。そして、とりわけ「リケジョ(理系女子)」が少ないという現実(少なくとも私の身の回りでは)は、こういうよく分からない偏見が人々の頭の中にあるからなのだろうかと想像したりもする。そうだとしたら非常に残念だ。

 

 4、理系・文系という区分に替わる新たな区分

 

理系は自然科学(science)、つまり自然現象を相手にする学問領域。文系は人文科学(humanities)、つまり人間を相手にする学問領域、と言ってしまった方が分かりやすいかもしれない。もちろん、そもそも2種類に分類するということ自体に無理があるとは思うが。そして我々は、論理的思考力・言語能力・計算能力など、物事を考える上で共通する能力を土台にした上で、どのような対象に興味を持ち、それを探求していくか、ということになるだろう。理系・文系イメージにあった論理や情緒などは、別に各系の特徴ではないのである。

 

自然を研究することについてポアンカレは次のような美しい言葉を残している。「科学者は役に立つから自然を研究するのではない。楽しいから研究するのであり、自然が美しいから楽しいのである。もしも自然が美しくなければわざわざ理解しようと努めるには値しないし、生きることすら意味がないかもしれない。」(ポアンカレ『科学と方法』)これはとてつもない世界観を表明したものだと私は思う。ここには自然に対する絶対的な信頼がある。自然というのは神によって書かれた壮大な書物なのだ。その書物に書かれている美しく完全なる体系を、科学者は読み解いていくのである。自然現象を相手にするとはそういうことだ。

 

人間を相手に研究するということについてゲーテは、「人間こそ、人間にとって最も興味あるものであり、おそらくはまた人間だけが人間に興味を感じさせるものであろう。」また、「各個人に、彼をひきつけ、彼を喜ばせ、有用だと思われることに従事する自由が残されているがよい。しかし、人類の本来の研究対象は人間である。」と言っている(『ゲーテ格言集』新潮文庫)。研究対象が人間だ、というのは漠然としているが、ここには人間を相手にするということの根本的な考えが示されているものと私は思う。そして自然科学についても、どこかで人間に帰ってこなければならないのではないかという気がしている。自然現象を解明するのはあくまで人間であり、やはり我々は自然現象の中に生きているのである。そういえば、ゲーテは光学・植物学などの自然科学の研究にも力を注いだ人物であった。

 

 

5、そもそもなぜ理系・文系イメージの偏見が生まれたのか

 

 主に文系イメージについてだが、数学が苦手で消極的に文系を選んだという人が少なからずいるようである。数式アレルギーというのはアレルギーだからいかんともし難いのだろう。数学的な意味での論理的思考の訓練を受けていない、あるいは論理的思考をあいまいにしたままの文系の人が多いのだろうか、というのが私の想像である。もっとも、現代文で論理的思考が鍛えられないはずはないのだが。

 

 また、文系=文学というイメージがあるのだ、ということを人から聞いた。小林秀雄は、文学書とは「正確に表現することがまったく不可能な、また、そのために価値があるような人間の真実が書かれている本―――それも、考えて、考えて、くふうをこらしたことばで書かれた本」だと言っている(高見沢潤子『兄小林秀雄との対話』講談社)。私なりの理解で言い換えると、言葉によって、言葉にできないものを表現するのが文学である。言葉の緻密な使用によって、言葉にできないものの周りを囲んでいって、それを暗示するのだ。もし文学がそういうものなのだとしたら、緻密に作られた文学の性格に反して、文学は曖昧で情緒的なものだ、というように思われるかもしれない。

 

先の『理系バカと文系バカ』で著者は、「どうも日本人は、ステレオタイプに当てはめて人を判断するのが好きなよう」で、「自分の中に『理系人間はこうだ』『文系人間はこうだ』というイメージを持っていて、相手に『理系ですか?文系ですか?』と訊くことによって、その人を自分が持っているイメージにあてはめたがっているということではないだろうか」と書いている。つまり、「『理系ですか?文系ですか?』という質問は『血液型は何型ですか?』と訊くのと同じようなコミュニケーション手段の一つなのかもしれない」のである。