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まとまった考えが浮かんだら書いています

分析的知識の意義について ~オカルトについての私の考え~

岡田暁生氏の『音楽の聴き方』(中公新書)は、「音楽の少なからぬ部分は語ることが可能である」という立場で、音楽を聴くという行為に対して徹底的に踏み込んだ記述をしているわけであるが、その際岡田氏は以下にあるような小林秀雄の考え方に対して、「もし小林が言うよう芸術体験に本当に言葉は要らないのだとすれば、一体何のために批評はあるのだろう?」と批判している。

 

 

 

 

 

「極端に言えば、絵や音楽を、解るとか解らないとかいうのが、もう間違っているのです。絵は眼で見て楽しむものだ。音楽は、耳で聴いて感動するものだ。頭で解るとか解らないとか言うべき筋のものではありますまい。」(小林秀雄「美を求める心」)

 

 

 

 

 

 

 

私も岡田氏に賛成する。しかし、小林も、批評を無意味だと考えていたわけではないだろう、と私は信ずる。音楽は言葉で語れないから、ただ感性に頼るしかない、というall or nothingの発想に問題があるというのは、私の持論だ。小林は、批評という分析的知識の有用性を認めつつも、やはり最後は直観だ、直観がなければ芸術に対して感動することはできない、ということを力説しているのだろうと、私は想像する(99%の努力があっても1%のひらめきがなければいい仕事はできない、というのと似ている)。小林の「モオツアルト」から引用しておきたい。

 

 

 

 

 

 

 

「ヴァレリイはうまいことを言った。自分の作品を眺めている作者とは、ある時は家鴨を孵した白鳥、ある時は、白鳥を孵した家鴨。間違いないことだろう。作者のどんな綿密な意識計量も制作という一行為を覆うに足りぬ。ただそればかりではない、作者はそこにどうしても滑り込む未知や偶然に、進んで確乎たる信頼を持たねばなるまい。それでなければ創造という行為が不可解になる。してみると家鴨は家鴨の子しか孵せないという仮説の下に、人と作品との因果的連続を説く評家たちの仕事は、到底作品生成の秘義には触れ得まい。彼らの仕事は、芸術史という便覧に止まろう。ヴェレリイが、芸術史家を極度に軽蔑したのももっともなことだ。

 しかしヴァレリイにはヴァレリイのラプトゥスがあったであろう。要は便覧を巧みに使うことだ。巧みに使って確かに有効ならば、便覧もこの世の生きた真実とどこかで繋がっているに相違ない。」

 

 

 

 

 

 

 

ここで言われている「便覧」とは、芸術に対する分析的知識といってよいだろう。それは便覧に止まるかもしれないが、巧みに使えば有効だと小林は言っている。この部分を、芸術そのものは言葉では語れないとしても、言葉を使って芸術そのものに近づくことはできる。そして「便覧」という芸術に対する分析的知識は、直観によって芸術そのものを捉えるアシストをすることができる、という意味に私は解釈する。

 

 

 

私が言いたいのは、分析的知識と直観による把握には、それぞれの領分がある、ということである。人間の生命を科学で完全に解き明かすことは、おそらくできない、と私は信じる(それが科学によって完全に説明されてしまったら、人間は存在していられなくなるだろう)。しかし、生命としての人間に迫るためには、科学という方法は有効だ。科学という観点を通じて、我々は、我々人間のことについて、非常に多くの知見を得てきたことは、疑いの余地のないことだ。だから、たかが科学されど科学、というわけだ。ベルクソンが、分析と直観という対立軸で、科学を批判したのではなく、科学という方法の持つ特質を明らかにしたというのは、そういうことではないか。こういうことを基本的な考えとして分かっておかないと、我々はとんでもないオカルトにはまってしまうのではないかと思う。