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まとまった考えが浮かんだら書いています

抽象と具体、そして具体

 

抽象的なことの方が普遍的で価値があるという固定観念がずっと付き纏っていて、損をしてきたかもしれない。具体的なことに目を向けるのは大事だ。文章でもそうだ。抽象的なことを書く場合にも、具体的な事象の裏付けは不可欠なのだ。抽象的なことも、具体的な事象が契機となってひらめく。具体的な事象の裏付けがない言葉は無意味なのだ。世に溢れる不毛な紋切型表現は少しの意味も持たないのだ。

 

 

 

具体的な事象は、しばしば抽象的な概念に回収されてしまう。そして、そんな具体的な事象は大したことではなかったと言って、それで分かった気になってしまう。これは立派なことなのかもしれない。一定の概念なり法則なりを見出した先人は確かに偉大だったということだ。しかし、その抽象的な概念なり法則なりを、その人が具体的な事象で経験できたということは貴いことなのではなかろうか。頭で分かった気になっていてはいけないのだ。

 

 

 

具体的なことを書こう。日常の些細な気付きを書こう。自分の身の回りをよく観察してみよう。具体的な日常を書いたなら、それは直接の普遍性は持たないかもしれないが、全く無意味ということにはなりえない。なぜなら実際にその人はその日常を確かに生きたのだから。哲学は抽象的だが、すぐれた哲学者は自分の書いたことをきっと具体的に感じていたことと思う。我々がその具体性をいかに掴めるかが問題だ。

 

 

 

各人が実践している活動を持っているということは大事だ。それはまず日々を生きているということ、それから書くこと、話すこと、習い事、仕事、勉強など多種多様だ。こうした活動に真剣に身を投じて具体的な事象の裏付けを豊富に持っているからこそ、抽象的な概念は我々の中に入ってくるのである。

 

泳げなかった私

 

私は小学校4年生まで金槌だった。水に体を浮かべるとはどういうことか?水の中では人間は呼吸できない。水に重いものを入れると沈む。小学生とはいえ私の体はスーパーで売っている米よりは重い。ならば、全身を水に委ねるとすぐに沈んでしまうのではないか?そして自分は息ができなくなって死んでしまうのではないか?周りの友達はちゃんとみんな水に浮かんでいた。そして泳いでいた。私はそれをこの目で見ていた。しかし、恐怖だった。私は水に体を委ねるということができなかった。その感覚が分からなかった。

 

 

 

それがあるとき、水に体を浮かべる感覚を掴んだのだ。今でも覚えている。ある日の、いつもなら憂鬱なプールの時間。先生の笛が鳴り、私の「蹴伸び」の順番が回ってきた。大きく呼吸をして、足で壁を勢いよく蹴った。足を真っ直ぐに、そして両手を頭の上にピンと伸ばし、体を床と平行にする。そして全身の力をふんわりと抜く。これは完全に水に全身を委ねたことを意味する。するとどうだろう。すぐには分からなかったが、どうやら私の体は沈んでいないらしい。つまり、私は水に浮かぶことができた!奇跡の瞬間だった。私にとってのすべての疑問が解決した。もっとも、息を大きく吸い込んでおけば、少々水の中に沈んだとしても、すぐに足を床につけることはできるから、すぐに頭を大気中に出すことができ、息ができなくて死んでしまうことはないのだった。

 

 

 

こんなことを書いても、ほとんどの人には分かってもらえないかもしれない。残念なことに、体育の先生は我々に、平泳ぎの上手な足の動かし方は教えてくれても、人間が水に浮かぶという感覚は教えてくれなかった。私は皆が何となくできることでも、事細かに理解しなければすることができないのだった。この器量の悪さは今でもあまり変わらない。よく馴染むまで自分の手で練習できないものを、私はうまく扱うことができない。

 

 

 

もしもプールで同じような悩みを抱えている小学生がいたら、この拙文を読んで勇気を出してほしいと思う。

 

コンサートでの暗譜は必要ない

「コンサートでピアノを弾くときには暗譜で弾かなければならない」というのが、どうやら多くの人の意見のようである。アマチュアのピアノコンサートでも、多くの人が暗譜で演奏をしている。私もアマチュアでピアノを弾く人間である。人前でもしばしば演奏する。そのときにはやはり暗譜で弾くべきなのだろうか?私はコンサートでの暗譜は必要ないと思っている。

 

もちろん、曲を覚えてしまうくらい練習することは必要だ。しかし、そうであっても、本番で完全に曲を覚えて弾くことは困難だ。記憶は飛ぶものである。限られた時間内に記憶を引き出せばよい筆記試験とは違い、コンサートで演奏する場合にはリアルタイムに記憶を引き出していかなければならない。ステージは極度の緊張を強いられる場だ。普段どんなにスラスラ弾けていたとしても混乱は避けられない。

 

楽譜を見たから完璧に弾ける、というわけではない。ミスタッチはしてしまう。しかし、記憶が飛んで演奏が止まってしまうことはかなりの確率で防げるはずだ。アマチュアの演奏を聴いていると、最後まで止まらずにスラスラ弾ける人は実は少ないのである。そして途中で止まってしまう人に限って、スクリャービンやショパンのような技術的にも難しい曲を暗譜で弾こうとしていることが多々ある。こういう人達にとっては、難曲を暗譜で華麗に弾ききるということが夢なのか、はたまた夢に似た強迫観念なのか、私には分からないが、私は聴いていてもったいないなと思ってしまう。とりあえず難曲をステージにかけるだけの実力があるのだから、楽譜を見ることで止まらずに最後まで弾ききれるならそちらの方が絶対に良い。

 

歴史的には、19世紀にクララ・シューマンが暗譜で弾いたのがかっこよかったとか、20世紀にはトスカニーニが暗譜で振ったのがかっこよかったとか、言われがあるらしいが、私はこれを彼らが作った悪しき伝統と呼ぼう。プロに対して言っているのではない。あくまでアマチュアに限って言っている。しかしプロでも、上のトスカニーニはコンサート前、ステージ裏で「忘れないか、忘れないか」と常に不安に駆られていたというし、あのリヒテルだって、楽譜の細かな指示まで覚えることは不可能だ、楽譜を見て正確に演奏するのがよいのだ、といったことを言っている。オリ・ムストネンはバルトークのコンチェルトを楽譜を見て(おまけに自分でめくって)弾いていた。

 

私がコンサートでの暗譜は必要ないと考えるに至った過程には、室内楽の経験がある。プロでも、室内楽をやる場合には楽譜を見る。合わせものをするためには、ピアノ以外のパート譜を把握するためにも楽譜は必要なのだ。そうすると、自然とソロの時にも楽譜を見て弾くようになった。そして気付いた。コンサートでわざわざ暗譜して弾く必要はない。演奏が良ければそれが一番いいのだ。

 

実際コンサートで暗譜をして弾こうとなると相当な覚悟が必要である。しかし、コンサートで暗譜をしないとなると、コンサートで弾く、という事に対するハードルが随分下がる。ある程度仕上がれば、まずコンサートで弾いてみようという気になる。そして実際次々とコンサートで弾けるようになる。これはすごいことだ。こうしているうちにだんだんとうまくなっていく。人前で弾くことは最高の練習である。むしろそれが普通になるのが望ましいことなのではなかろうか。

知識が役に立つとは?

 

役に立つ、ということを考えるときに、多くの場合我々は、役に立つことと効率の良さを混合して考えているのではないかと思う。役に立つというと、ある知識を得たときにすぐに使える、という効率の良さを思い浮かべがちだが、しばらくしてから役に立つ・たくさんの知識のうちのいくつかが役に立つ、といった「投資に対する回収率」の悪い役の立ち方だってあるのだ。役に立つとは、直接的に役に立つ・間接的に役に立つ・今すぐ役に立つ・しばらくしてから役に立つ、の4通りの組み合わせによって成り立っている、と聞いたことがある。

 

 

新たに得られる雑多な知識が役に立たないということはない。現在の日々の営みを淡々を繰り返すだけなら新たな知識は不要かもしれないが、何か新しいことをやろうと考えるならば新たな知識は絶対に必要だからだ(すべてのことを完全に自分で考えるということはありうるのか?)。もちろん、多少とも「投資に対する回収率」を上げようと思えば、質の良い雑多な知識が必要となろう。知識の内容は雑多でよいが、内容の理解は雑ではいけない。まとまった考え方をたくさん持っておくことが重要である。そのようなまとまった考え方という「浮遊物」が頭の中にたくさんあれば、ある時それらが「衝突」して「飛び出して」くる。それがひらめくということだ。

 

 

新しいことを思い付くときの出発点はアナロジーである。あるものとあるものが似ている、という感覚。そしてそれらがつながる、という発見。そこから新たなものが生み出される。これこそが、雑多な知識が役に立つという最高の瞬間ではなかろうか。

 

頭の中を整理するには?

「机の上が整理されている人は頭の中も整理されている」と、

小学校の先生が言っていた。

「読み込んだ専門書が何冊本棚に並んでいるかがそのまま君の実力だ」と、

大学の先生が言っていた。

頭の中は案外可視化されている。

身の回りを見渡してみれば・・・。

空想対話―――カフェでゲーテと小林秀雄に話を聞く

大学生:

というわけで、食堂の帰りに久しぶりに博物館に行ったんですね。ちょうどジョルジュ・ヴァザーリの建築に関する展覧会をやっています。こういうのは会期がいつの間にか終わっていることが多いので、気付いたときに行っとかないとと思って……。その特別展は2階でやっているのですが、1階は常設展で、いろんなフィールドワークの成果が展示してあるんです。もう何回も見たんですけどね。久々に見ても面白い。特に感動したのがフタバガキの種で、柿の種(商品名じゃないほうですよ)ぐらいの大きさの種に羽が2枚ついていて、ちょうど羽子板の玉みたいになっているんですね。実に面白い形です。たぶん種を遠くに飛ばそうと進化していってああいうふうになっていくのかと思いますけど、自然って実に多様で不思議で美しいですよね。葉っぱなんかでもよく見ると美しいですねえ。こういうの見ていると、もうありのままの自然に感動できればそれでいいのではないか。自分で変なものを拵えて研究みたいのしたってしょうがないんじゃないか、とふと影が差すようなときがあるんですが……。

 

ゲーテ

そうだな、人間の到達し得る最高のものは驚きだと思うね。もし根本現象によって驚かされたら、それで満足するがいい。それ以上のものは与えられない。またそれ以上のものを背後に求むべきではない。そこに限界がある。しかし人間は根本現象を見ただけでは通例満足しない。なおもっと先に行かなくてはと考える。鏡の中をのぞくと、すぐ裏返して、裏側に何があるか見ようとする子どものようなものだよ。

 

大学生:

驚き……。実に深い思想ですね。それから他にも、見事な蝶の標本とか鳥の剥製とかが置いてありましたよ。それから、日本とその周辺の大陸や海底の凹凸を再現した縮小模型がありました。日本の東にあるプレートというか海溝というかが凄まじかった。日本列島よく無事だなというぐらいの深さと大きさです。地球のダイナミックさはすごいです。ちょっとミルクティーを。

 

でも思うんです。自然は確かに美しい。しかし、それで満足するというのは、ただ今あるものに安住しているだけなのではないか。それを楽しんでいるだけというのは生き方としては甘いのではないかということです。何か新しいこと……学問において新しいものを生み出すということについて……

 

小林秀雄(以下「小林」):

学問が好きになるということは、たいへんなことだと思うね。好きになることがむずかしいというのは、それはむずかしいことが好きにならなきゃいかんということでしょう。やさしいことはつまらぬ、むずかしいことが面白いということが、だれにでもあります。

 

大学生:

あることを知って感動したら、それより難しいことを知りたいという……。

 

 小林:

ヨーロッパの大学は、四年間大学にいれば卒業証書が貰えるという仕組には出来ていないでしょう。資格を得るのには何年かかるかわからない。また何年かけてもよい。

 

 大学生:

私のところはどうだか知りませんが。

 

小林:

学問は非常にむずかしい。どうしてもむずかしいことをやりたいと願う人だけが学者の資格を取れるんだな。

 

大学生:

なるほど、今ある知識に満足せず、面白いと思えばもっと先に進めということですね。力強いお言葉ですけど、小林さん大変に厳しいですね。ミルクティーをもう一口。

 

でもやっぱりそうはいうものの、新しいことをやるのはなかなか難しいですね。科学研究ってなんだろうか……。今私が研究しているようなことが本当に有用なことなのか、ということがまだ見えないですね。現代ではいろんな問題があって他にもっと大事なことがあるのに、毎日こんなに電気を使って、ゴミをいっぱい出して、一体何をしようというのかということですよ。畢竟すると、自分が卒業するという名誉のためにやっているのだろうか……。だから、極めて浅はかな印象に過ぎないのかもしれませんが、漠然とした葛藤があるんです。ともかく、やはり私は生きている限りでは、何かに驚く、感動するということを求めたいですね。

 

ゲーテ

各個人に、自分をひきつけ、自分を喜ばせ、有用だと思われることに従事する自由が残されているがよい。けれども、人類の本来の研究対象は人間だよ。

 

そういえば、ヘーゲルがこんなことを言っていたよ。弁証法の本質とは「だれの心にも宿っている矛盾の精神を法則化し、方法論に完成したもの以外の何ものでもありません」とね。

 

大学生:

つまり、こういう心の葛藤は誰にもあって、そこから各人が止揚して乗り越えていかなければならないということなんでしょうか。やっぱり何事も一回は深く取り組んで、苦しんでみないとだめですね。そうでないとなかなか見えてこない。自分が向いているかいないかも分からない。

 

ゲーテ

そうそう、いかにして人は自分自身を知ることができるか。観察によってではなく、行為によってだよ。君の義務をなさんと努めよ。そうすれば、自分の性能がすぐわかる。君の義務というのは、つまりはその日その日の要求だよ。

 

 大学生:

自分で自分の課題にしっかりと取り組めと。

 

ゲーテ

いろいろ研究してみたところで、結局自分で実際に応用したものしか、頭にのこらないからな。

 

それに、仕事の圧迫というのは心にとってきわめてありがたいものだよ。その重荷から解放されると、心は一段と自由に遊び、生活を楽しむ。仕事をせずにのんびりしている人間ほどみじめなものはないな。そんな人はどんなに美しい天分もいとわしく感じるものだよ。

 

 大学生:

……やっぱりゲーテさんは人生の達人だという気がしてきました。お二方、どうもありがとうございました。そういえば博物館の2階の話をするのを忘れていましたが、今度晩御飯を食べに行った時にでも。それではまたよろしくお願いします。

 

 

 

ゲーテ小林秀雄の発言はすべて以下の文献からの引用。ただし文脈に合うように発言の語尾や呼称などを変更したところがある。

ゲーテ格言集」(高橋健二編訳 新潮文庫

ゲーテとの対話」(全3冊)から(上)(下)(エッカーマン著、山下肇訳 岩波文庫

「人間の建設」(小林秀雄岡潔 新潮文庫

 

昼飯の選択の自由

キャンパス内にある2つの食堂で、選択の自由ということを思う。一方は日替わりでメニューが決まっている。AB定食、カレーそして麺。もう一方は「ザ・めしや」方式である。さて、与えられた定食メニューを何も考えずに享受するか(といっても選択肢はあるが)、気分によって取り合わせを自分で考えようとするか。

 

与えられるか、自分で考えるか、というのは大きな二項対立だ。そして、これから社会に出ようという人間には「自分で考える」方の能力が主に求められている。もっともだ。しかし、個人がすべてを自分で考え決めていくというのは、正直苦しい。これは個人の考える能力の不足だともいえるが、それ以上のものでもある。あるものを選択するとは、それ以外のものを選択しないということだ。天命という言葉がある。人間つまるところ、人生で何か決定的なものが与えられることを願っているのではないか。孔子が天命を知ったのは五十歳である。

 

随分話が飛躍してしまった。今日のランチは結局「ザ・めしや」方式の店。大小6種類の取り合わせで493円。やすかった。うまかった。