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まとまった考えが浮かんだら書いています

高橋悠治 ピアノリサイタル 2017年2月24日

19:00~

浜離宮朝日ホール

http://www.asahi-hall.jp/hamarikyu/event/2017/02/event704.html

 

タクシーの運転手との会話。

朝日新聞の本社までお願いします」

「へえ、これからお仕事ですか」

「いえいえ、浜離宮朝日ホールに行きたいんです」

「お安い御用で。なにかイベントでも?」

高橋悠治という人のピアノコンサートがあるんです。」

「そんな有名な人なんですか」

「そうですね。非常に独特な人らしいんですが、一度聴いてみたくて」

「お客さん、立派な趣味をお持ちですなあ。私なんぞ博打ばかりでいくら負けたか知りませんよ」

新橋、金曜日の夜である。

 

高橋悠治は、虚無僧のようである。ちょっと派手な金のシャツ以外に、存在感がない。もっとも、虚無僧といっても、瞑想する僧侶ではない。彼は、まさしくそのままの姿で、ピアノに座り、弾く。こんな理想的な形でピアノに向かうピアニストなど、見たことがない。

 

パーセル、そしてルイ・クープランの曲。両足を曲げて構え、「私はペダルを踏みませんよ」という意思表示。指のみを使った完璧なコントロール。しかし、通常「完璧」という印象がもたらすはずのぎらぎらとした光沢感を、彼の演奏は微塵も感じさせない。これは、実は神業なのではないか。演奏を聴き進めていくうちに、誰もが思ったはずだ。

 

彼は曲ごとに紹介を入れながら演奏会を進める。それがまた、実に的を得たことを話し、何の飾り気もなくウィットを効かせ、少しの沈黙のあと、「うん、まあ、こんなところで」と言って弾きはじめる。この、「うん、まあ」の間に、彼の頭の中にどれだけの内容があふれ、流れていったことか。

 

めぐる季節と散らし書き こどもの音楽

 

インドの四季というのは、冬、春、夏、秋、そして冬、と考えるらしい。冬から冬へ。また、散らし書きというのは、古今和歌集を色紙に書くときに、行頭をそろえたりせずに散らして書く、というもの。ジョン・ケージの「四季」では、特定のモチーフが一定の比率で反復され、曲が進み、また最後に繰り返される。高橋悠治自作の「散らし書き」では、左右で単旋律が奏でられ、絡み、間を取り、そして終わる。私は、季節の描写とか、言葉のイメージとか、そういうものを音楽に無理やり結びつけるのは好きではないが、音楽に置き換えた、というのではなく、これは音楽であった。私の印象では。

 

子どものための、というのは、子どもが弾けるくらい簡単な、ということらしい。シンプルな条件で、作曲家が実験的な手法を試したりするのだとのこと。私は、プログラムの最後の曲、ストラヴィンスキーの「五本指」が気に入った。右手を5つの鍵盤の上に置いて動かさず、それら5つの音を組み合わせるだけで曲にする。あるいは、ちょっと動かしたりまた戻したりして。制約が芸術を生む。ストラヴィンスキーの見事な創造ではないだろうか。

 

高橋悠治の話を聞いていて気付いたことがある。「らしい」の多様である。既にいくつか書いたが、その他にも、「ブゾーニがアメリカに行ったときに、息子の友達の女の子のために書いた曲、らしい」とか、「サティーが、子どもには難しすぎると思ったから没にした、らしい」とか、「サティーの曲は、1曲目はドビュッシーの、3曲目はラヴェルのパロディー、らしい」とか。その話し方が何とも面白い。この、「らしい」が織り成す世界。作り話ではないにせよ、真や偽を超えたところにある世界。そして、音楽は鳴り始める。彼の演奏を駆り立てる想像力の一端を見た気がした。

 

アンコールに弾いた、ウェーベルンの「子どものための小品」。ウェーベルンがはじめて十二音技法で書いた曲、らしい。ウェーベルンは一体何を思って、子どものためにこんな曲を書いたのだろう?あっちやこっちやに飛び散る音、それが連打になり、和音になり、圧縮され、また散る。これぞ見事な散らし書き。聴衆からは驚きと笑いが漏れた。

 

終焉後、東京駅までタクシーに乗った。運転手は何も話さなかった。

2人のタクシーの運転手さん、どうもありがとう。今日はいい日でした。

 

高橋悠治が話した解説の箇所は、うろ覚えで、微妙に間違っているかもしれません。)