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まとまった考えが浮かんだら書いています

本を読んで分かるとは

理系の専門書を読んでいて思う。本を読んで読み手が理解できる内容とは、書かれた事柄に関して本の著者が理解した内容である。また、本を読んで読み手が内容を理解できるためには、本の著者は自分が理解した内容を明解かつ論理的に説明している必要がある。これが達成されていないなら、読み手がどんなに丁寧に繰り返し読んでも内容は理解できない。

 

本多勝一によれば、「あらゆる言語は論理的なのであって、『非論理的言語』というようなものは存在しない」。そして、「いくら日本語が論理的であっても、それを使う人間が論理的であるとは限らない。(中略)たいへん論理的な言語としての日本語が、誤った使い手によってさんざんな目にあわされてきたのだ。」として、日本語は曖昧で非論理的な言語だ、という俗説を否定する(『日本語の作文技術』朝日新聞社)。要するに、言語は論理的なのであり、ただ非論理的な書き手がいるだけなのだ。(耳が痛い。ちなみにこれは「悪いピアノは存在しない、腕の悪いピアニストがいるだけだ」という言葉と似ている。)

  

「読書百遍、意おのずから通ず」という言葉がある。この言葉について小林秀雄は、「読書百遍ていうのは科学上の本のことをいってるんじゃなくて、文学上の本のことだ。正確に表現することがまったく不可能な、また、そのために価値があるような人間の真実が書かれている本―――それも、考えて、考えて、くふうをこらしたことばで書かれた本に対していうことだ。それが文学書だからね。」と語っている(『兄 小林秀雄との対話 人生について』高見沢潤子講談社文芸文庫)。

 

私がこれを解釈するなら、「科学上の本」では、そこで著者が表現しようとしている内容は科学の性格上明示的であるために、専門用語の意味を一つ一つ押さえた上で論理の筋道を丁寧に追っていけば、読み手は必ずそれを理解できるはずである(理系の専門書を読んで分からない場合は、専門用語の意味をはっきりと分かっていないか、文と文との論理のつながりが分かっていないかのどちらかで、その具体的な箇所が指摘できるはずである)。逆にその手順を確実に踏まないなら、読み手は「読書百遍」したとしても「意おのずから通」じることはない。もし読み手がその手順を確実に踏んだとしても意味が分からないならば、著者の内容理解あるいは言語表現の問題が、本の著者の側にある。(※)

 

 一方「文学上の本」について考えるならば、「文学上の本」を読む際にも用語の意味を押さえて論理の筋道を追うことはもちろん必要だが、それだけでは不十分で、読み手が何か直観しなければ内容を理解できない。その理由は、小林が言っているように、「文学上の本」は「正確に表現することがまったく不可能な、また、そのために価値があるような人間の真実が書かれている本」だからだ。そして、読み手の直観により内容を理解することとはすなわち、読み手自身の経験を本の記述に当てはめて内容を推測・検証することなのではないだろうか。私の考えでは、「読書百遍」というのは連続的に行うものではない。時間をおいて、ことあるごとに何度も読み返す。そうしているうちに、読み手の方もだんだん成長してきて、本に書かれている内容をよく理解できるような境地に達する。そうすると、「意おのずから通」じてくる。そういうことなのではないかと思う。

 

 

 

 

 

(※)実はここに落とし穴があるとも私は考えているのだが。人間は、「AでBだからCが言え、それよりDでEとなる」というような論理展開を追うだけでは納得できない。「科学上の本」であっても読み手が納得するには、自分の既存の知識・経験でその論理を検証できる必要がある。岡潔の、数学には情緒が必要、という考えはこのことを言っているのではないかと思う(岡潔小林秀雄『人間の建設』)。よく物理のテキストのまえがきに、「この教科書は高校程度の数学が分かっている人なら、丁寧に読めば分かるはずだ」と書いてあったりするが、おそらくこういうことを書く著者には、「AでBだからCが言え、それよりDでEとなる」式の論理展開しか頭にない。丁寧に書いたから、ゆっくりと読んでくれれば分かってくれるはずだ、と思っている。しかしこれは間違っていると思う。情緒による検証ということに気付いている人はとても少ない。 (難しい例になるが、我々は量子力学で波動と粒子の二重性ということを習うけれども、これをいくら実験事実と理論式で論理的に説明されても、情緒の点から納得できる人がどれくらいいるか。これは、こういうものなのだとして慣れることが理解することと同一視されている、と考えるべきだと私は感じている。)