イーヴォ・ポゴレリッチ ピアノリサイタル(2016年12月10日、サントリーホール)
2016年12月10日、サントリーホールで、イーヴォ・ポゴレリッチのピアノリサイタルを聴いた。
概要
http://www.kajimotomusic.com/jp/concert/k=540
プログラム
シューマン: ウィーンの謝肉祭の道化 op.26
アンコール
シベリウス: 悲しきワルツ op.44
実は、私は彼に関する様々なエピソード、すなわち鬼才と呼ばれる所以、は耳にしているものの、録音・実演含めて、ほとんど彼の演奏を聴いたことがない。この機会に、一度実演で彼の演奏を聴いてみたいと思った。
1曲目のショパンのバラード第2番。出だしのコラール調の部分は、確かに遅く弾かれた。しかし、奇を衒ったものでないことはすぐに分かった。必要にして十分な間(ま)。弱音の中での微妙な音量の変化。彼が引き出した繊細な響きは実に美しいものであった。こういう感性が持てるとは。
メトロノーミックであるということには、意味はない。音楽における時間というのは伸縮するのだ。それは外在的な時間ではない、人間の感じる内在的な時間だ。ルバート。改めて、音を十分に咀嚼して音楽にするということと、その上での演奏の自由さということを思った。
彼のピアニスティックな技量は万全のもので、余裕さえ感じさせた。それは、例えばショパンのスケルツォ第3番の中間部で、星屑が滝のように流れてくるパッセージの天国的な美しさで際だった。むろん、この曲でオクターブを連打するパッセージも聴かせどころである。ときに、若干低音を叩き過ぎる傾向はあったが、あれほどの強烈な響きを久しく聴いたことがなかった。背が高く、堂々たる体躯。背筋をぴんと張ったまま振り下ろされる腕。
個人的には、この日一番気に入った演奏は、シューマンのウィーンの謝肉祭の道化だった。次々と道化が登場する際の場面の切り替わり。過度に感傷的になることはない。しかし、時折効かせるウィットが心憎い。そして、一体どれだけ鳴り響くのだろうかと震駭させられるほどの、大音量の行進曲。総じて、徹底的にピアニスティックに、終始圧倒的な迫力でもって、シューマンの劇を演じて見せた。こういうシューマンの弾き方もあるのかと感心した。
彼のステージマナーというのは、傍若無人、むしろ聴衆の方を畏縮させるといった方がいいのか、楽譜は床に投げるし、最後には椅子を蹴ってピアノの下にしまい、「今日はおしまいだ」と示すあたりの態度は、なぜか野球の伊良部秀輝を思い起こさせた。お辞儀は非常に丁寧なのだが。よく分からない。ともかく、この日一番緊張したのは譜めくりの女性であったと思われる。彼女にはお疲れ様と言いたい。
といったわけで、演奏会後の感慨を大事に持ち帰るには、そう安易に彼に近づくのがよいとは思えなかった。つまり、無邪気にサインをもらおうとまでは思えなかった。しかし、彼にもし一言話して帰れるなら、感激を伝えたいとは思った。ほぼ満員の聴衆は、スタンディング・オーべーションで彼の演奏を称えていた。