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まとまった考えが浮かんだら書いています

将棋電王戦について コンピューターは新しいことを考えることができるのか?

将棋のプロとコンピューターソフトが対戦する「電王戦」が話題となった。結果はコンピューターソフトの311分。コンピューターソフトの性能の高さを印象づけた。

 

 この結果をどうとらえようか。朝日新聞(2013423日)には、プロ側の視点として「現代将棋は研究が進み、定跡が整備されて似た進行の対局も増え、閉塞感を覚えるプロも多い。今回、定跡にない新手を繰り出し、常に最善手を求めるソフトに刺激を受けたようだ」とあり、田丸昇九段が「『将棋もプロとコンピューターが協調して無限の可能性を探求してほしい』」とコメントしていた。

 

 コンピューターは自分で新しいことを考えることができるのか、という問いがある。新聞の内容を読む限り、今回の電王戦では、コンピューターにも新手を考えることができるということが実証されたらしい。

 

 小林秀雄が「常識」(『考えるヒント』(文春文庫)収蔵、昭和34年)という文章の中で、エドガー・ポーの「メールツェルの将棋差し」という作品のことを書いている。将棋を差す自働人形の話だ。詳細は省くが、小林は「機械は、人間が何億年もかかる計算を一日でやるだろうが、その計算とは反復運動に相違ないから、計算のうちに、ほんの少しでも、あれかこれかを判断し、選択しなければならぬ要素が介入して来れば、機械は為すところを知るまい。これは常識である。常識は、計算することと考えることとを混同してはいない。将棋は、不完全な機械の姿を決して現してはいない。熟慮断行という全く人間的な活動の純粋な型を現している。」また、「『人工頭脳』を考え出したのは人間頭脳だが、『人工頭脳』は何一つ考え出しはしない」というのが「決定的な事実」だと書いている。要するにコンピューターに将棋は差せず、コンピューターには新しいことは考え出せないというのが常識だ、としている。

 

 

この食い違いをどう考えようか。私はコンピューターソフトの詳しい仕組みについては何も知らないが、一定のルールに従って駒を動かし将棋を差すことのできるソフトは、コンピューターの進歩によって作ることができた。ではコンピューターが新手を考えたということについてはどうだろうか?

 

 

これは、新しいことを考えるとはそもそもどういうことなのか、を考えてみればよいのではないかと思う。オリジナルな発想というと、我々は天から降ってきたひらめき、のように思ってしまうかもしれない。しかし、それはおそらく違う。新しいことを思いつくというのは、頭の中にある無数の知識から新しいパターンの組み合わせを見つける、ということではなかろうか。誰も、ゼロから発想をすることはできないのだ。そして、私の想像であるが、コンピューターが新手を発見したというのは、可能なパターンをしらみつぶしに読んで、そのパターンからある判断基準に従って最善の手を選んだ、というただそれだけだ。それが、人間にとっては新手に見えたのである。それは、人間の直感が無意識のうちに読みからはじいていた手であった。

 

 

そうすると、人間のように感情を持つロボット、のレベルにまではいかなくとも、これまで人間の直感が考えもつかなかった組み合わせを見つけてしまうという意味での人間にとって新しいことを考えるコンピューターというのは、実現可能なのではないか、という気がしてくる。今はそれが、一定のルールに従った将棋というゲームの中での話ではあるのだが。