読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

メモノート on Hatena Blog

まとまった考えが浮かんだら書いています

理系と文系についての偏見

1、理系イメージ・文系イメージは偏見

 

 理系・文系という区分は世間で一般的である。その区分に付随して、理系のイメージ・文系のイメージというものが存在する。例えば、竹内薫(著)・嵯峨野功一(構成)『理系バカと文系バカ』(PHP新書)では、世間一般の人が思い浮かべる理系・文系のイメージとして、以下のようなものを挙げている。

 

理系=論理的、文系=情緒的

理系=細かい・几帳面、文系=アバウト

理系=オタク、文系=ゼネラリスト、もしくはミーハー

理系=横書き文化、文系=縦書き文化

理系=分類・体系化、文系=混沌混在化

理系=ファッションに無頓着、文系=オシャレに敏感

 

 これは確かに、世間一般に流布している理系・文系のイメージとおよそ一致していると思われる。しかし、少し考えれば分かるように、このようなイメージは明らかに偏見である。文系の人間は論理的でないというのだろうか?あるいは几帳面さがないというのだろうか?理系の人間にはゼネラリストがいないというのだろうか?等々。本記事で問題にしたいのは、このような理系・文系に対する偏見である。

 

 

2、本記事の柱

・理系・文系のイメージがもたらす弊害・問題点。

・理系・文系という区分に替わる新たな区分。

・そもそもなぜ理系・文系イメージの偏見が生まれたのか。

 

 

3、理系・文系のイメージがもたらす弊害・問題点

 

理系・文系イメージが、例えば「私は理系だからコミュニケーションが苦手でも仕方ない」といった類の物言いに逃げ道を与えているのかもしれない。『理系バカと文系バカ』の中で挙げられている「理系バカ・文系バカ」の例というのは、確かに共感できるところもあるのだが、理系バカ・文系バカではなく単にバカに当てはまることが多いのではないかと思う。

 

また、理系・文系のイメージは、もしかすると男・女のそれと重なっていて、理系=男性=論理的、文系=女性=感情的、となっているのかもしれない(ちなみに、こういった男・女のイメージも偏見に違いない)。そして、とりわけ「リケジョ(理系女子)」が少ないという現実(少なくとも私の身の回りでは)は、こういうよく分からない偏見が人々の頭の中にあるからなのだろうかと想像したりもする。そうだとしたら非常に残念だ。

 

 4、理系・文系という区分に替わる新たな区分

 

理系は自然科学(science)、つまり自然現象を相手にする学問領域。文系は人文科学(humanities)、つまり人間を相手にする学問領域、と言ってしまった方が分かりやすいかもしれない。もちろん、そもそも2種類に分類するということ自体に無理があるとは思うが。そして我々は、論理的思考力・言語能力・計算能力など、物事を考える上で共通する能力を土台にした上で、どのような対象に興味を持ち、それを探求していくか、ということになるだろう。理系・文系イメージにあった論理や情緒などは、別に各系の特徴ではないのである。

 

自然を研究することについてポアンカレは次のような美しい言葉を残している。「科学者は役に立つから自然を研究するのではない。楽しいから研究するのであり、自然が美しいから楽しいのである。もしも自然が美しくなければわざわざ理解しようと努めるには値しないし、生きることすら意味がないかもしれない。」(ポアンカレ『科学と方法』)これはとてつもない世界観を表明したものだと私は思う。ここには自然に対する絶対的な信頼がある。自然というのは神によって書かれた壮大な書物なのだ。その書物に書かれている美しく完全なる体系を、科学者は読み解いていくのである。自然現象を相手にするとはそういうことだ。

 

人間を相手に研究するということについてゲーテは、「人間こそ、人間にとって最も興味あるものであり、おそらくはまた人間だけが人間に興味を感じさせるものであろう。」また、「各個人に、彼をひきつけ、彼を喜ばせ、有用だと思われることに従事する自由が残されているがよい。しかし、人類の本来の研究対象は人間である。」と言っている(『ゲーテ格言集』新潮文庫)。研究対象が人間だ、というのは漠然としているが、ここには人間を相手にするということの根本的な考えが示されているものと私は思う。そして自然科学についても、どこかで人間に帰ってこなければならないのではないかという気がしている。自然現象を解明するのはあくまで人間であり、やはり我々は自然現象の中に生きているのである。そういえば、ゲーテは光学・植物学などの自然科学の研究にも力を注いだ人物であった。

 

 

5、そもそもなぜ理系・文系イメージの偏見が生まれたのか

 

 主に文系イメージについてだが、数学が苦手で消極的に文系を選んだという人が少なからずいるようである。数式アレルギーというのはアレルギーだからいかんともし難いのだろう。数学的な意味での論理的思考の訓練を受けていない、あるいは論理的思考をあいまいにしたままの文系の人が多いのだろうか、というのが私の想像である。もっとも、現代文で論理的思考が鍛えられないはずはないのだが。

 

 また、文系=文学というイメージがあるのだ、ということを人から聞いた。小林秀雄は、文学書とは「正確に表現することがまったく不可能な、また、そのために価値があるような人間の真実が書かれている本―――それも、考えて、考えて、くふうをこらしたことばで書かれた本」だと言っている(高見沢潤子『兄小林秀雄との対話』講談社)。私なりの理解で言い換えると、言葉によって、言葉にできないものを表現するのが文学である。言葉の緻密な使用によって、言葉にできないものの周りを囲んでいって、それを暗示するのだ。もし文学がそういうものなのだとしたら、緻密に作られた文学の性格に反して、文学は曖昧で情緒的なものだ、というように思われるかもしれない。

 

先の『理系バカと文系バカ』で著者は、「どうも日本人は、ステレオタイプに当てはめて人を判断するのが好きなよう」で、「自分の中に『理系人間はこうだ』『文系人間はこうだ』というイメージを持っていて、相手に『理系ですか?文系ですか?』と訊くことによって、その人を自分が持っているイメージにあてはめたがっているということではないだろうか」と書いている。つまり、「『理系ですか?文系ですか?』という質問は『血液型は何型ですか?』と訊くのと同じようなコミュニケーション手段の一つなのかもしれない」のである。