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まとまった考えが浮かんだら書いています

アルド=チッコリーニの2012年京都公演

我々の経験の価値というものは、そのときすぐには決められない。そういう類の極めて貴い経験というものが存在する。未来が過去を解釈する。そんなことを最近思っている。もちろんあることを経験したときに、何らかの感想を持ったり、良かった・悪かったという判断を下したりすることはある。しかし、判断を下すと同時にその経験を整理してしまうことは、その経験の持っていた何か重要な側面を自分の中から葬り去ってしまう気がしてならない。それはあまりにも勿体ない。私の友人曰く、頭の中に雑然と出来事を持っておくのが大事なのだ。

 

 経験というのは不可解なものの方が良い。あまりにも分かりきった経験はすぐに賞味期限が過ぎる。人間すぐにちゃんと説明できなくてもモヤモヤと何か感じるところがあれば、そこには必ず理由がある。あとから、あれはそういうことだったのか、あのとき感じたことは確かに正しかったんだな、と分かるときが来る。ついでに言えば、生きて自分を知るというのは、自分の過去の経験が持つ価値に現在の自分がふと気付いたときに達成できることなのかもしれない。

 

 87歳のピアニスト・アルド=チッコリーニのリサイタルを聴いた(2012124京都コンサートホール・アンサンブルホールムラタ)。これを聴いて確かに考えることはあって、それをこれから書いてみようと思うのだが、この巨匠の演奏を目の当たりにできたことは、すぐには価値を測れない・測ってはいけない経験なのだと感じている。演奏会評をきれいにまとめにかかることはさして重要でない。これから書くことは、今の私の断片的な備忘録にすぎない。

一曲目のシューマン「子どもの情景」を聴いていると、同じく最晩年までこの曲を得意としていたホロヴィッツのことを思い出した。チッコリーニのタッチはしっかりしていたが、途中暗譜があやしくなることは何度かあった。しかしその次のショパン「タランテラ」はうってかわって溌剌としていた。これはすごかった。前半最後は同じくショパンの「幻想ポロネーズ」。序奏の音の運びが絶妙。ポロネーズに入ってからはルバートを使わない演奏で、リズムが際立った。後半はドビュッシー「前奏曲集第1巻」。これも、怪しい響きを漂わせるタイプの演奏ではなく、単刀直入、あくまでしっかりとしたタッチで音楽を築いていくという感じ。

ここまで聴いて私は思った。チッコリーニはやはりイタリア人だ。ナポリ生まれの朗らかさとでもいえばいいのだろうか、それが演奏にはっきりと刻印されている(私はイタリアに行ったことはないが)。そういえばドビュッシーの前奏曲集も「アナカプリの丘」の中間部の歌い回しが最も気に入った。それからショパンの「タランテラ」!

 

 アンコールには、まずスカルラッティ(イタリアのナポリ出身!)のソナタホ長調K.380を弾いた。スカルラッティというと普通古楽調の乾いたタッチで演奏されることが多いが、チッコリーニの手にかかると、軽快なリズム、優雅でなめらかな旋律、そしてそこにふと差し込む気だるさや寂しさ、こういうものがないまぜとなったこの上もなく魅力的な演奏になるのだ。つづいてグラナドスのスペイン舞曲から「アンダルーサ」。チッコリーニのラテン的情熱。とにかくやることなすことすべてが完璧にはまる。『論語』にある「七十にして心の欲する所に従えども、矩を踰えず」という言葉を思い出した。稀有なる音楽の瞬間だった。