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メモノート on Hatena Blog

まとまった考えが浮かんだら書いています

考えたこと

 

しばしば言われるように、出会いは不意に訪れる。古本屋に立ち寄って、ドフトエフスキーの短篇集を見つけた。前期と後期の二冊あり―――ともに絶版になっているようだが―――長編しか知らなかった作家の本で珍しいので、両方買うことにした。前期の方に載っていた『弱い心』。自己卑下が強迫観念にまで昂じてしまったしがない小役人ヴァーシャの心理的悲劇に、脳天へ釘を叩きこまれるような共感を覚えた。いや、共感とか、理解とか、はたまた解釈とか、そういう言葉は覚束ない。もしかしたら自分の読みも的外れなのかもしれないが、ともかく、強烈な体感として、この小説に入れ込んでしまった。生きる人間としてこの世に存在することは、堪えがたい。人間が生きるということは、常に他者との関係性の中に生きざるを得ないからだ。その関係性は、良いことも悪いことも、ある。ヴァーシャは最後には発狂して、精神病院に送られる。親友アルカージイは、黄昏どきのネヴァ河の傍らで佇み、ヴァーシャが発狂した理由を悟り、青ざめる。

 

もう一つ、私がこういう強烈な体感を覚えた文章に、中原佑介の『二十代のメッセージ』がある。京大の湯川秀樹研究室で理論物理を専攻しながらも美術評論家に転身した氏の追想であるが、読んでいて一文一文がナイフで頭に刻み込まれるように感じた。氏は「物理学から離れてしまったのちに、しばしばあれはどういうことだったのだろうかと自問」し、自分は「演技者」になることを夢見てきたつもりが、実は「専門的観客」となることを目指していたのではなかったかという発見に至る。アインシュタインは「相対性理論」という劇を生み出した「天才的演技者」だが、中原は「専門的観客」という道を選び、ステージには物理学者に替わって美術家が登場した。

 

今まで私は、他人は私とは別人だと、当然のように考えてきたが、案外そうではないのだということに気付いた。自分が最も内側で考えていることを、実は他人も考えている。しかも、上に挙げた二つの文章はともに筆者が二十代のときに書いたか、二十代のことを書いたものだ。私が今ぶつかっている壁は、実は先人も二十代のときにぶつかっていた壁なのかもしれない。それに、『弱い心』の解説によると、この小説は「ゴーゴリの『外套』以来の「小さな人間」のテーマを、ドフトエフスキー一流の手法を駆使して新しい段階に高めた傑作」(江川卓)であり、私の二十代の壁は、実は人間が昔からずっと考えてきた難しいテーマに連なっているのかもしれない。何も新しいものを生み出すことだけが偉いのではない。過去から受け継がれてきたテーマの深淵を自分のものとして体感すること。それ以上に凄まじいことがあるだろうか。自分の考えていることがそのテーマに連なっているということが発見できれば、それに勝るものはないのではないだろうか。

 

同世代ではもう社会に出て働いている友人が大勢いる。そんな中で私は大学に来て、なぜ今の所属を選んだのか、私は何をしたいのか、などと考えないわけにはいかない。しかし、素直に自分の興味を思い返してみて、今の所属を選んだのは、やはり他と比べれば確かにその分野に興味あってのことだという思いと同時に、自分が本当に知りたいと思うこと、それはもしかしたらどこの学部に行っても教えてくれないのではないかとも思うのだ。仮に教えてくれるとしても、学校では既存のことしか教えてくれず、あることを学びたいと思って入ってくるのはいいが、それを学び終えてよく分かったらそれからどうするのだろう。これは、誰も口にしないが浮上してくる問いである。その後の興味は真っ直ぐに膨らむとは限らず、不思議な仕方でいびつに膨張することもあるのではないか。そういうことを考えると、自分が知りたいと思うことは、結局は自分で本に出会い、人に出会い、機会を作って、学び考えるしかなかったのではないか。そういう意味では私は自分の興味と多少の活動を持っていると言えなくもない。そのことだけが、私の自己卑下を少しはなぐさめてくれる。

 

自分は何でこんなことをしているのだろう、とずっと悩みながら一生を終えるのが、人生なのかもしれないと、おぼろげながら考えるようになった。私はヴィジョンの持てない人間である。ただし、他者との関係性の中で、他人に迷惑をかけながら生きている以上、人に喜んでもらえることをしたい、それだけはどうにかならないだろうかと、考えるに至った次第である。