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まとまった考えが浮かんだら書いています

Debussy Preludes

 

我々は美術館で絵を前にしたとき、反射的にその絵の作者や題名を見てしまう。ある美しい絵を見て、それだけで納得することは稀だ。そして、例えばその絵がルーベンスの絵であったら、やっぱり、と思うし、無名の画家の絵であれば、そうなんだ、でも美しいことは美しいなあ、と思ったりするのではないだろうか。また、ラジオで気になる音楽が流れていたら、最後のアナウンスまで聞いて、それが誰の作品か、演奏者は誰か、といったことを知りたくなるのではないだろうか(それを推測しながら聴くというのも面白い体験だ)。未知のものを視たり聴いたりするのは、実は緊張感を伴うことで、作者や題名を知らずにそれを評価するのは、少々気持ち悪いことでもあるのだ。(以上、岡田暁生『音楽の聴き方』をもとに)

 

ドビュッシーの前奏曲集には、題名がない。いや、題名がない、というのは嘘で、楽譜の最後に、申し訳程度に、括弧付きで書いてある。これは、聴き手に、題名に縛られず自由な想像力を持って聴いてほしい、という意図を持ったものだろうと思われるが、聴き手にとっては、事態はそう「自由」ではないのではないかと思う。題名を知らされないで未知の曲を聴く、というのは、非常に緊張感を伴う体験なのだ。そして最後に、実はこういう題名でした、といって種明かしをされる。それは聴き手の想像していたことと合うかもしれないし、違うかもしれない。ただここで曲に対する一定の方向付けがなされて、聴衆は緊張から解放される。ドビュッシーの前奏曲集には、そういう「謎かけ脱出ゲーム」的な要素があるのではないかと私は想像する。