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まとまった考えが浮かんだら書いています

国語が苦手な人への方法論 そして音楽、絵画への応用

論文を要約せよ、という課題に取り組んでいるときに、文章の「読み方」を意識することの重要性に気付いた。さらには、なぜ私は国語の試験が全然できなかったのか、分かった気がした。それはこういうことだ。「要約せよ」と言われたら、普通は全体の論理展開を追って著者の主張を読み取り、その流れをまとめていくのがオーソドックスなやり方だろう。その際、例えば「具体例」や「比喩」は、主張を支える副次的な役割しか持たない。しかし、時には「具体例」や「比喩」の方が興味深かったり、表現が面白かったり、抽象的な文より分かりやすかったりする(これはその役割を考えると当然なのだが)ために、読み手にとってそちらの方がクローズアップされてしまうことがある(おそらくこれは読み手の感性の閾値が低いのだろう。細かい面白さに引っ掛かりすぎるのではないか)。しかし、それらはあくまで全体の論理展開に対して副次的なものであったのだから、そういう読み方にはまると、「要約せよ」と言われてもバランスの悪い解答を書いてしまうことになるだろう。しかもこれは自分では理解し納得したことを書いた解答なのであるだから、問題をいくら解いても、これは一体何が悪かったのだろう、といって模範解答を読みそれを無理やり理解しようと努めるだけ、ということになってしまう。

 

もちろんこういう問題を引き起こす私の国語力は十分でない(なかった)。しかし、文章には複数の「読み方」があること、そして、「要約せよ」と言われたときに要求された「読み方」はそのうちの一つである、ということに気付くべきであった。上述した「オーソドックスな読み方」は最も基本的な「読み方」だろう。しかし、「具体例」や「比喩」の面白い表現を見つけては味わう、という読み方もあるはずだし、また筆者がちょっと脇道にそれて書いたことが自分の座右の銘になったりする、ということもあるはずだ。それはそれで一つの「読み方」なのだ。それを考えると、模範解答と自分の解答が違うのは、理解力の違いというよりは、その「読み方」の違いに起因するかもしれないのだ。そのことを知っておくべきだ、というのが、私の発見である。ちなみに、齋藤孝の「三色ボールペン読書法」は、「赤(最も重要)・青(重要)」と「緑(自分が面白いと思ったところ)」は、実は異なる「読み方」の切り替えを意味していたのではないか。

 

この文章の「読み方」についての考察は、音楽であれば「聴き方」に、美術であれば「見方」に、それぞれ応用できる。どの分野の「方」にせよ、複数の「方」があること、そして状況に合わせて適切な「方」を持ってくる必要があるということ、もし意見の相違があればそれは双方で「方」が違う可能性があるということ。それを認識することだ。

 

そうすると、この考え方は岡田暁生著『音楽の聴き方』の「はじめに」にたどり着いてしまったように思える。「クライマックスの熱狂へ向けて盛り上がる音楽」は「感動型」の「聴き方」が合うが、雅楽や尺八にはまた別の「聴き方」がある。この「聴き方」とは、その音楽に(あるいは演奏に)何を期待して聴くか、と言い換えてもいいように思う。我々がある音楽をつまらないと感じるときは、もしかすると「聴き方」が適切でない、つまりその音楽に期待するものが的外れであったのかもしれない。適切な「聴き方」を見つけないと、いつまでもその音楽を過小評価してしまう可能性がある。それに気付かずに、ある音楽は良い、ある音楽は悪いという自らの評価付けを信じているとしたら!(これと、「聴き方」を知った上で、ある音楽は「好き」、ある音楽は「嫌い」というのとは、雲泥の差ではないか。)

 

美術でも、例えばアングルの完璧な描写の絵画を見る「見方」と、モネの軽いタッチの絵画を見る「見方」は、当然違うはずだ。そして、モネの絵画を「印象にすぎない」と言い「作りかけの壁紙の方がまだまし」と書いた批評家は、おそらく自分の中にあった(今から思えば旧来の)「見方」で、モネの絵画を見てしまった。しかし、それから100年以上が経過した今では、私たちはその絵画を楽しむ「見方」を見出したわけだ。そして、我々が美術館で絵画を見るときは、各時代の様式に合わせた「見方」をそこに当てはめて、その作品を楽しんでいる。(ただし、中には人々が「方」を獲得するのに時間のかかるもの、あるいは「方」がほとんど獲得されないのではないかと思われるものがある。それが音楽ではシェーンベルクなのではないかと今のところ考えているのだが。)岡田氏の本を初めて読んだときは「自分がどんな聴き方をしているのか自覚的になってみよう」という主張に対してそれほど重要性を感じなかったのだが、私も新たな「考え方」を獲得したのだと言えようか。