出家について
出家とは精神的なものである。
生活については、完全に自立することは困難で、どこかで人と助け合い、社会に入らざるを得ないから。
だから、お寺に籠らなくても出家はできる。
メールやLINEについて気になること
1、
人と人が同じ時間を共有して話すというのは、緊張感を伴うものである。
相手の言ったことを聞いて、その場で内容を理解し応答しなければならず、集中力や瞬発力を要求されるからである。
メールやLINEは、人と人が同じ時間を共有して話すよりも集中力や瞬発力を要求されないという意味で、楽な手段であると感じる。しかし、このようなコミュニケーション手段に慣れてしまうと、上述のような人間の大切な能力が衰えていくという気がする。だから、我々は、既にそのような能力が衰えつつあるのだという気がする。スマホが便利になったということにばかり気を取られて、そのようなことに無神経であるのが気になる。これは、昔とは時代が違うのだという結論に収めてよいことなのか?
2、
もちろん、各人がゆっくりと考えてその結果を意見交換するということも重要だ。だから、例えば、事前にメールで要件を簡単に伝えておき、同じ時間を共有して話すときにスムーズに議論に入れるようにする、といったコミュニケーション手段の使い分けは、今の時代ならではの便利な方法だと言えるだろう。
現代文の試験提案
現代文の試験は、以下の2つでよいと思う。
1、本文の要点は何か簡潔にまとめよ。
2、本文を読んで面白いと思ったところはあるか。あるいは著者の主張に反論があるか。理由とともに述べよ。
なぜかというと、文章を読んだあとに訊かれたり、報告を求められたりするのは、
結局のところ、「何が書いてあったか?」と、「面白い内容だったか?」だからだ。
本文と微妙に異なる表現を使った、合ってるとも間違ってるとも言えるような選択肢を選ばせるような問題はもう御免こうむりたい。
英語 語学教育 意義
1
英語!英語!と言うことに対して嫌悪感を覚えるのは、ひとつは自分がいつまでたっても英語ができるようになったとは思えないことに対する自己嫌悪でもあるのだろうが、確かに英語を勉強するというのはつまらない。手段が目的になっているからだ。英語でしか読めない「価値あるもの」を読むための基礎的能力として、英語力を持っておくのはよかろう。そうすると、確かに自分が読める「価値ある」文献は増えるだろう。それは大変重要なことだ。しかし、その益なくして英語の勉強だけをするのはいかがなものか。使わない道具の使い方を一所懸命覚えるようなものだ。それは無味乾燥に違いない。
だから、ただ何でも英語で授業をやればよい、英語であれば価値がある、という考え方はナンセンスである。
古文・漢文を勉強する意義も、そういう古文の価値を前提においてこそなされるべきである。古いが永遠の価値を持つと思える名文、日本語本来のリズム感、そういうものを充分に味わうために古文・漢文を学ぶのだ。決して試験のために文法を覚えるのではない。
2
ゲーテが「外国語を知らないものは、自分の国語についても何も知らない」と言ったという(『ゲーテ格言集』新潮文庫p.116)。自国語で考え自国語で表現する、というのが大事なのは当然だが、そのためにも実は外国語を学んでおくのは何らかの意義があるのかもしれない。比較対象があるということだ。
外国語の教育を行うなら、自国語との比較という点にまで踏み込み、言葉というものの面白さを学ぶ契機とするべきだ。
何語のMozart?
Mozartのオペラばかり聴いている。Mozartのこのピアノ曲は、イタリア語なのだろうか、ドイツ語なのだろうか、などと考えてみるのも面白い。