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まとまった考えが浮かんだら書いています

人間はだましだまし生きる存在

人間は常にだましだまし生きている存在である。そうしないと身が持たない。真実はもっと恐ろしい。なぜだましだましで生きていけるのかというと、おそらくみんながそうだからだろう。

 

真実を直視するものは狂気にとらわれるに違いない。歴史上の偉人たちはそうして真実を掴み、あるものは本当に狂った。私はそのように推測する。

 

原発の問題は、あまりにも恐ろしいため、我々は真実を直視できない。それに、人間はだましだまし生きていく存在だから、真実を直視せず、結局自らをだまし、原発を廃止しきれないでいる。核に関わること以外のことは、だましだましやっていても、どこかで帳尻が合っていたのだろう。しかし、核に関わることだけは、他のこととは性質が違い、だましだましではいけないのではないだろうか。これ以上のことは、やはり恐ろしいので書けないが。

動作の習熟と無駄

どれくらい動作に無駄が入っても大丈夫かどうかが分かったときに、その動作が出来るようになったと感じる。はじめは肩が凝る。すべてをきっちりやらないといけないと思うから。これは要するに手の抜きどころが分かるということだが、単なる手抜きのことを言ってるのではない。

手が抜けるところが分かるということは、手が抜けないところが分かるということであり、それは一連の動作を理解したと言ってもいいのだろう。より大事なところにのみ注力するから、肩が凝らないと同時に、いい動作が長くできるのだ。

「習うより慣れろ」の真実?

我々が根本的な事柄を理解したと言うとき、それはただ「慣れた」だけであって真の意味で「分かった」と言えることは多くはないのではないか。

 

例えば、中学生に負の数を教えて「分かって」もらうのは難しい。我々はもう負の数に「慣れて」いてそれを当然だと思っているから、なぜ中学生に「分かって」もらえないのかが分からない。しかし我々も実はそれを「分かって」いるわけではないのではないか。

 

昔からある根本的な問題は、一般に解決されたと思われているものでも、決して解決されたわけではなく、問題をすり替えているか、あるいは表現を変えただけで、結局何も解決されたわけではないのではないか。たとえ、問題をすり替え、表現を変えるごとに、真理に少しずつ近づいているとしても。物理学の「エーテル」と「場」。「神」を死なせたニーチェの「運命愛」。

 

ゲーデル不完全性定理を思い起こす。人間の思考という公理系では解き明かすことのできない定理がある・・・?

 

「習うより慣れろ」というのは、意外に、かなり真理を言い当てている言葉なのかもしれない。

最近のメモ帳から

しばらく何も書いていませんでしたが、アクセス解析を見ると、意外にも毎日5-10人くらいの人がこのブログを訪問してくれているようです。感謝します!

しかも、Yahoo!検索で引っかかって来る人が最も多いという意外な事実。検索といえばGoogleだと思っていたが意外にそうではないのだろうか?

 

最近のメモ帳から適当に

 

・「見聞を広く持て」とは、具体的には、今自分の置かれている立場を相対化し、それ以外の道もある、違う世界もある、ということを知ることである。

 

・絵本の挿絵ばかり集めた展覧会に行ってきた。絵本は、考えてみれば当然だが、大人が描いている。中学校の国語の先生は「絵本は大人の読み物です」と言っていた。パウル・クレーの絵は、子どもが描いた絵のようだ。あれが大人の描く絵だろうか?子どもっぽさをいつまでも保つことは容易ではない。むしろ稀である。そういう天才的な大人が時々いる。

 

・文章を読んでいて分からなくなるときは、その文章の単語の意味が多義的に取れるので、何を言いたいのかが分からなくなる。

 

・文章を書いていると、自分の書いたすべての文章に引用がつけられるように思うことがある。自分の知っている知識には何らかの出所が必ずあるのだろうか?

 

・計画を立てるときは、ある程度のゆるさをもって立てるのである。なぜゆるいかというと、そんな正確に物事がうまく進むかなど分からないからだ。訳も分からず計画を細かくし過ぎると、計画に縛られる。そもそも、はじめから計画が破綻する。昔親戚の小学生が、分刻みの「夏休みの予定表」を立てていて家族一同大爆笑したことがある。8時起床、8時1分トイレ、8時5分朝食、8時15分歯磨き、・・・。計画とはそういうものではない。

 

・ピアノを正確に弾くには、正しい操作を順に続ければよい。それだけのこと。しかしそれが難しい。普段の練習では個々の部分についてはそれができている。それを全曲通じてとなると難しい。確率的にうまくできたりできなかったりする。なぜ?人間の注意力、集中力。

 

・怒り、憎しみを人にぶつけても、それは怒り、憎しみしか生まない。それは最も悪いこと。

 

・物真似芸人と絵画。本物を、理想的な形で、そっくり真似るとウケる。なぜ?パスカル「本物は平凡で、誰も賞めやしないが、その本物を、いかにも本物らしく描くと賞められる。画家とは、何と空しいつまらぬ職業だろう」(小林秀雄「近代絵画」から孫引き)

 

・家に帰るまでが飲み会。遠足のときの小学校の先生の言葉を思い出そう。

 

・北欧といって何を思い浮かべるか?

 

 その土地の風土、自然を大切にする以外に、他の地域と差別化する方法はない。

 

・究極に科学が発達した状態ってどんなものか?人間がいなくなる?

 

・ニュートンの運動方程式アインシュタインの重力方程式など、物理学の基本的な方程式が美しいと思うのは、ベートーベンの曲のテーマが美しいと思うのと同じ。それ自体は味気ない。それだけを見ていても美しさはよく分からない。その後の展開、発展を知るから面白い。それを知れば方程式やテーマを見たときに、そこから広がる世界を想像しつつじわじわとした感動を覚えるだろう。

 

・人生の師と仰ぐ人が本の世界の中にいてもいいではないか?

 

・まず常識がないと、専門的知識は役に立たない。むしろ役立たせてはいけない。(常識とは何だろう?)

 

・芸術家も、世界について何かを掴んだ人でなければならない。哲学者と同じ。芸術家は、それを芸術という手段で表現する。

 

・競争と協力の関係は微妙。

 

・ほとんどのことはやればできる。何を、どれだけ一生懸命にやるか、だ。

 

・人生におけるチャンスは空から降ってくる雪のよう。うまく受けとれば手で掴める。一度地面に落ちてしまえば溶けてなくなる。

 

分析的知識の意義について ~オカルトについての私の考え~

岡田暁生氏の『音楽の聴き方』(中公新書)は、「音楽の少なからぬ部分は語ることが可能である」という立場で、音楽を聴くという行為に対して徹底的に踏み込んだ記述をしているわけであるが、その際岡田氏は以下にあるような小林秀雄の考え方に対して、「もし小林が言うよう芸術体験に本当に言葉は要らないのだとすれば、一体何のために批評はあるのだろう?」と批判している。

 

 

 

 

 

「極端に言えば、絵や音楽を、解るとか解らないとかいうのが、もう間違っているのです。絵は眼で見て楽しむものだ。音楽は、耳で聴いて感動するものだ。頭で解るとか解らないとか言うべき筋のものではありますまい。」(小林秀雄「美を求める心」)

 

 

 

 

 

 

 

私も岡田氏に賛成する。しかし、小林も、批評を無意味だと考えていたわけではないだろう、と私は信ずる。音楽は言葉で語れないから、ただ感性に頼るしかない、というall or nothingの発想に問題があるというのは、私の持論だ。小林は、批評という分析的知識の有用性を認めつつも、やはり最後は直観だ、直観がなければ芸術に対して感動することはできない、ということを力説しているのだろうと、私は想像する(99%の努力があっても1%のひらめきがなければいい仕事はできない、というのと似ている)。小林の「モオツアルト」から引用しておきたい。

 

 

 

 

 

 

 

「ヴァレリイはうまいことを言った。自分の作品を眺めている作者とは、ある時は家鴨を孵した白鳥、ある時は、白鳥を孵した家鴨。間違いないことだろう。作者のどんな綿密な意識計量も制作という一行為を覆うに足りぬ。ただそればかりではない、作者はそこにどうしても滑り込む未知や偶然に、進んで確乎たる信頼を持たねばなるまい。それでなければ創造という行為が不可解になる。してみると家鴨は家鴨の子しか孵せないという仮説の下に、人と作品との因果的連続を説く評家たちの仕事は、到底作品生成の秘義には触れ得まい。彼らの仕事は、芸術史という便覧に止まろう。ヴェレリイが、芸術史家を極度に軽蔑したのももっともなことだ。

 しかしヴァレリイにはヴァレリイのラプトゥスがあったであろう。要は便覧を巧みに使うことだ。巧みに使って確かに有効ならば、便覧もこの世の生きた真実とどこかで繋がっているに相違ない。」

 

 

 

 

 

 

 

ここで言われている「便覧」とは、芸術に対する分析的知識といってよいだろう。それは便覧に止まるかもしれないが、巧みに使えば有効だと小林は言っている。この部分を、芸術そのものは言葉では語れないとしても、言葉を使って芸術そのものに近づくことはできる。そして「便覧」という芸術に対する分析的知識は、直観によって芸術そのものを捉えるアシストをすることができる、という意味に私は解釈する。

 

 

 

私が言いたいのは、分析的知識と直観による把握には、それぞれの領分がある、ということである。人間の生命を科学で完全に解き明かすことは、おそらくできない、と私は信じる(それが科学によって完全に説明されてしまったら、人間は存在していられなくなるだろう)。しかし、生命としての人間に迫るためには、科学という方法は有効だ。科学という観点を通じて、我々は、我々人間のことについて、非常に多くの知見を得てきたことは、疑いの余地のないことだ。だから、たかが科学されど科学、というわけだ。ベルクソンが、分析と直観という対立軸で、科学を批判したのではなく、科学という方法の持つ特質を明らかにしたというのは、そういうことではないか。こういうことを基本的な考えとして分かっておかないと、我々はとんでもないオカルトにはまってしまうのではないかと思う。

 

音楽は言葉で語れるか? ~分析と直観について~

音楽を言葉で語ることについて考えてみたい。

 

 

初めに言っておくが、音楽を完全に言葉で語ることはできないはずである。もしそれが可能ならば、音楽は必要ないからだ。しかし、だからといって、音楽は言葉で語れない、ただ感性の趣くままに捉えるだけだ、と考えるのは不十分だ。実のところ、音楽を味わい、いい演奏をするためには、ひたすら感性を鍛えるしかない、と考えている人は多いのだが、これでは音楽を理解するということに対する思考が停止している。感性を鍛えるとはどういうことなのか?

 

 

岡田暁生氏が『音楽の聴き方』(中公新書)で、「音楽の少なからぬ部分は語ることが可能である」という立場に立ち、音楽を聴くという行為に徹底的に踏み込んだ記述をしている。その一方で、「相性だの嗜好だの集団的な価値観の違いだのといったことを突き抜けた、有無を言わせぬ絶対的な価値の啓示」が存在するところに音楽を聴く価値があり、「身体の記憶の中に『打ち震えた』経験を持たない人に対して、言葉はほとんど用をなさない」として、音楽体験の原点にこうした「突き抜けた体験」が必要だとも書いている。これは一見すると矛盾することを言っているように思われるが、そうではない。これはどういうことか?

 

  

 

私の考えでは、多くの人が、分析と直観という二つのものを、うまく使えていない。音楽は言葉で語れないから、ただ感性に頼るしかない、というall or nothingの発想に問題がある。たとえ音楽そのものは言葉では語れないとしても、言葉を使って音楽そのものに近づくことはできる。そうして音楽そのものに可能な限り近づいておいて、最後の最後に直観によって、音楽そのものにジャンプする。人間には、そういう能力が備わっている。これが、感性によって音楽を捉えるということだ。

 

 

 

言葉で語るとは、対象を分けて区別することであり、それは分かることにつながる。それが分析である。一方直観とは、ある対象を、それ自体を分けることなくして直接に捉えることである。対象をどれだけよく分析できるかが、直観によってどれだけうまく音楽そのものを捉えることができるかの鍵を握っている。そして、対象をよく分析できれば、直観によって音楽そのものを捉えるのは、決して難しいことではない。それは意外にも、頭を抱えるほどのことではない。むしろその地点までくれば、対象を自然に捉えられる。私は素直にそう考えている。

 

 

 

音楽に興味を持つ、という動機づけに、「突き抜けた体験」は必要だ。しかし、一度興味を持った音楽に対しては、分析と直観により、さらに踏み込んでいく。これは別のプロセスだ。そして、このプロセスが、我々に音楽そのものを捉える契機となり、音楽に対するさらなる楽しみを与える。

 

 

 

それでも、何をもって音楽そのものを捉えたといえるのか、という疑問が存在するだろう。それに対しては、明確な判断基準を示すことは難しい。分かったと思えばそれが自分にとっての理解である。そしてその理解はその人の信念を形成する。確かに信念というのは危険なものだ。しかし、その人はその時点での自分の理解に責任を持つしかない。それは仕方のないことだ。幸いなことに、人それぞれの理解度は比較できる。より深く理解している人というのは確かに存在する。そのような人から新たに学ぶことがあれば、そうすればよい。結局、人は向上心を持ち続けることが必要だという程度のことを、私は思っている。

 

ヴァレリー・アファナシエフ ピアノリサイタル 2013年6月23日 びわ湖ホール

 

これが真のロシアピアニズムなのか。アファナシエフの本領はここにあったのか。圧倒的な演奏だった。

 

 

 

〈プログラム〉

 

ドビュッシー 前奏曲集第1巻 雪の上の足跡、沈める寺

 

プロコフィエフ 風刺Op.17 第2番 間のびしたアレグロ

 

ショスタコーヴィチ 24の前奏曲より、 第14番 変ホ短調

 

プロコフィエフ 風刺Op.17 第1番 嵐のように

 

ドビュッシー 前奏曲集第1巻 沈める寺

 

 

 

後半

 

音楽劇≪展覧会の絵≫ (作曲:ムソルグスキーアファナシエフ自作自演)

 

 

 

アファナシエフというと、「極端に遅いテンポによる演奏で曲の深淵に潜むドラマをあぶり出す」(チラシ)といったイメージ。CDを聴いても実際そういう演奏をしていた。しかし、今回はそういう彼のイメージが変わる演奏会だった。彼はやはりロシア人なのだということを思った。

 

 

 

前半。ぎすぎすしたリズム、シニカルな諧謔。こういったプロコフィエフショスタコービッチの醍醐味を、彼の大きな手と華麗な技巧が奏でる演奏で堪能した。これは本当にすごい演奏だった。それと、不思議なことに、こういった曲を演奏する彼に親しみさえ感じた。

 

 

 

ギレリス(彼の先生だ)、リヒテルといったソ連の大ピアニストにありがちな、ちょっと傍若無人というか、ぶっきらぼうでスマートではない感じ(あくまで音楽についてだ)の遺伝子を、アファナシエフは受け継いでいる。まさに目の前に「ロシアピアニズム」がいた。

 

 

 

後半の「展覧会の絵」の自作劇については、プロムナードでつながれたこの組曲を、何曲か演奏しては言葉と演技の世界に戻るという繰り返しで聴くのは、この組曲の本来の聴き方に近いのかもしれないということを思った。はじめのプロムナードをけっこう細かく変化をつけて弾いているのは面白かった。フォルテが本当に力強く鳴ることに驚いた。やはり彼の大きな手と華麗な技巧だ。こんなすばらしい「展覧会の絵」を他で聴けるだろうか?

 

 

 

アファナシエフのドキュメンタリー(NHK

 

「漂泊のピアニスト アファナシエフ もののあはれを弾く」

https://www.youtube.com/watch?v=vKPjvGJELB4 (part1。以降part4まである)