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まとまった考えが浮かんだら書いています

国立西洋美術館の常設展の楽しみ

上野にある国立西洋美術館の常設展によく行く。金曜日と土曜日の夜は、20時まで開いている。夜にコンサートを聴くように、夜の雰囲気の中で美術館に行くのも良いものである。しかも、第二、第四土曜日は無料である(ちなみに入場料を払っても500円である)。多くの人は企画展を見に行くから、常設展は総じて人が少なく、ゆっくりと鑑賞できる。穴場である。

 

何回も同じ絵を見るという楽しみがある。いきつけのお店に行って、マスターと仲良くなるようなものか。どこに飾ってあるか覚えているような絵を見つけると、「ああ、またあった」という安心感がある。例えば、ヴィルヘルム・ハンマースホイの「ピアノを弾く妻イーダのいる室内」。新館1階を抜けて出口が見える曲がり角に、この絵はある。不思議な静けさを湛えたこの絵がお気に入りだ。

 

同じ絵を見るたびに新たな発見をすることもある。例えば、ヤン・ステーンの「村の結婚」で、ここにも人がいるのかと気付いたり、何かの宗教画で、背景の池に浮かんでいる白鳥とその水面での反射を細かく書いているなと気付いたり、同じキリスト磔刑の絵でも、エル・グレコのそれだけは、キリストが上を向いているなと感心したり。小林秀雄は、鉄斎が描いた六極一双の大屏風を、3時間以上も眺めていたことがあるらしい(『兄 小林秀雄との対話』)。絵を見るということに関する話題の中で、私が最も驚いたエピソードである。観察力と想像力。小林ほどではないにせよ、私も絵を見ていて色々な発見と想像ができればよいなと思っている。

 

美しい色を見ることは快楽である。2階に入ってすぐ左にあるイタリアの宗教画。それから、カルロ・ドルチの「悲しみの聖母」の青。セザンヌの、柔らかさのある新鮮な色使い。

 

絵を見るのに適切な距離というのがある。例えばセザンヌの風景画など、ちょっと離れて見ると、何とも言えない心地良い色彩を伴って全体が調和し、絵全体が浮きあがってくるように見える。一方で、絵に近づいて見ると、絵筆の跡が分かり、とても面白い。全体の調和のための細部の描き方だ。そこに画家の技術力がある。神は細部に宿るというが、全体の調和に寄与する絶妙な細部の作り込み方があるということだろう。単に細部に拘泥するということではないだろう。森を見た上で木を見るのである。

 

絵の話ばかりをしてきたが、この美術館の最大の楽しみは何といっても建築にある。本館はル・コルビュジェの設計、新館は前川國男による。まずは無限成長美術館の中心、本館1階の19世紀ホールと呼ばれるところに入ると、天井に三角形に開けられた窓とそれを支える十字の梁、梁と地面を結ぶ中央の柱が目に入る。解放感に溢れた空間だ。2階のイタリアの宗教画コーナーや、企画コーナーから見下ろす19世紀ホールも私のお気に入りだ。

 

この建物には色々と破綻がある。例えば、当初トイレが設計に入っておらず、地下に作ってある。ル・コルビュジェの無限成長美術館の構想は結局1周しか作られず、建物入口の右にある大きな階段が使われていない。増築する際は新館を作ることになった。しかし、その辺はご愛嬌として、建物に色々と仕込まれている謎も、鑑賞の楽しみを増していると私には感じられる。例えば、本館2階に、やはり使われていない中二階がある。この空間が私にはどうしても気になるのだが、擦りガラスから入ってくる柔らかな光がすばらしい。また、この中二階があるおかげで、本館2階の空間が単調にならずに、見る場所によって様々な表情を見せ、目を楽しませてくれる。また、本館2階には壁の近くに柱がたくさん出ており、ときどきぶつかりそうになるのだが、これは「後退して支える柱」という、ル・コルビュシェの建築の特徴であるらしい(越後島研一『ル・コルビュジェを見る』)。これも、意匠として面白いように感じられる。こういうことに、私は何度もこの美術館を訪れてようやく明確に気付いたのだが、単に目を引くきれいで斬新な建物ではなく、何度も訪れてその面白さが分かるようなものを作るというところに、建築の本当の醍醐味があるのかもしれない。

 

なお、この美術館では、建物の構造上、ほぼ完全に「逆走」することが可能である。本館2階に上がってすぐに左手に行き、トイレの案内に従って1階に下りると、そこが出口だ。その日の気分によって回る順番を変えてみるのも、ひとつの楽しみだ。

 

さて、ようやく新館に入ると、独特の甘いにおいがする。ここは2階であり、右手は1階へとつながる吹き抜けになっていて、急に広がりを感じる。その吹き抜けの1階には、現代の絵が掛けられている。本館の中世からロマン派あたりまでの作品を見てきた後ということもあり、現代の絵の内容も相まって、すばらしい新鮮さがある。もちろん、まっすぐ進んでいくと、印象派の絵の展示室がある。そこを抜けて、1階に下り、再度吹き抜けのスペースにやってくることができる。ここで、常設展の一通りの絵を見てきた多少の疲れを感じながら、最後にパッと景色が開ける解放感に浸ることができる。吹き抜けの真ん中に置かれた椅子に座って、中央に飾られたジョアン・ミロの大きな作品をぼんやりと見ていると、ふと解放された感じがして、幸せだと思った。そういう感覚に至ることは、至上の喜びである。

 

ときに日常から抜け出して、非日常に遊ぶことが必要なのだと強く感じた。今自分が生きているのは、もしかすると夢の中の生であって、本当は別に生きているのかもしれない。そういう感覚になることがある。これは少し危ういことかもしれないが、齋藤秀雄によると、芸術の定義は「一つの素材でもって全然違うものを作り上げる」こと。芸術とは日常からの超越ではないだろうか。実は、ここ国立西洋美術館の常設展を知ったのは、2014年に行われた平野啓一郎氏が監修した企画展によってである。「ふと思い立って収蔵品の常設展をわざわざ見に行くということはあまりない」と、平野氏は書いている。この企画展は、国立西洋美術館の収蔵品から平野氏が作品を選んで展示するというものであったが(従ってこの企画展は常設展の会場では行われていないが)、これを見に行ったことが、「常設展に何度も足を運ぶ」という鑑賞スタイルを私が発見するきっかけになった。このときの企画展のタイトルが、「非日常からの呼び声」であり、何か符合するものを感じる。

日本人は英語が下手だという幻想

 中学校以来英語を学んできたが(小学校でも少し)、本当に「何かを伝えたい」と思って使ってみないと、英語は身に付かない。例文をどんなに上手に読んでも、それは所詮どこかよそよそしいものであり、意志と感情をこめた、自分の発話として話す意識が必要だ。海外旅行で、何とかしてやりたいことを伝える。日本であっても、外国の人と会って話す。こういう場あたりの経験を積んでこそ、英語は身に付く。


 学校での勉強の影響かもしれないが、難しい文法やイディオムを気にしすぎるのではないか。みんなTOEICが好きすぎる。最近『英語は3語で伝わります』(主語-動詞-目的語)という本があったが、そうだと思う。日本語を英語に訳すのではなく、英語で話しやすいシンプルな表現を英語で考える、ということが必要だ。東進ハイスクールの宮崎尊先生が言っていたが、良く使う型を覚えることだ。


 また、日本人は発音が悪い、とよく言われるが、本当に悪いのはアクセントである。確かに、巻き舌のrの発音やthの発音は、日本語にはなく難しい。しかし、発音が多少悪くても通じる(ただし和製英語の発音は通じないので注意が必要である)。例えば、インド人の英語の発音はかなり変わっている。そういう多種多様な英語があるが、それはそれで国際社会の中でどうにかなっていると感じる。日本人より気を付けるべきなのは、実はアクセントだ。アクセントが異なると通じない(今思い出せる経験はドイツ語だが、印欧系の言語は総じてそうだと言ってよいだろう)。日本語には、明確なアクセントという概念がないから、そこが弱いのだ。練習するべきなのは、個々の単語の発音を気を付けるよりも、アクセントをつけてリズミカルに読むことだ。その際、軽く発音するだけにとどめたり、音をつなげて読んでしまうところを意識することで、うまくリズミカルに読めるようになる。よく英語の歌を聴くと良いといわれるのは、それを学べるからだ。


 最後に、英語は所詮ツールであることを知ることだ。ちゃんとした内容のあることを話すことが、もちろん大事だ。そして、それに見合っただけの英語力があれば良いのだ。何も難しいことを完全に話せなくてもよい。自分が話したいと思ったことを、どんどん話してみれば良いのだ。そのうちに話せるようになる。シャイになることが一番いけない。英語で流暢に話せる人ことがかっこいいという幻想があると思う。日本語であっても、ミーティングで何も話さない人がなんと多いことか。皆SNSやLINEに逃げている。この辺りも含めて、英語で流暢に話せるという日本人の理想像ができてしまっているのではないか。まずは日常的に、日本語で考え日本語で話すことを今一度考えるべきなのではないか。

高橋悠治 ピアノリサイタル 2017年2月24日

19:00~

浜離宮朝日ホール

http://www.asahi-hall.jp/hamarikyu/event/2017/02/event704.html

 

タクシーの運転手との会話。

朝日新聞の本社までお願いします」

「へえ、これからお仕事ですか」

「いえいえ、浜離宮朝日ホールに行きたいんです」

「お安い御用で。なにかイベントでも?」

高橋悠治という人のピアノコンサートがあるんです。」

「そんな有名な人なんですか」

「そうですね。非常に独特な人らしいんですが、一度聴いてみたくて」

「お客さん、立派な趣味をお持ちですなあ。私なんぞ博打ばかりでいくら負けたか知りませんよ」

新橋、金曜日の夜である。

 

高橋悠治は、虚無僧のようである。ちょっと派手な金のシャツ以外に、存在感がない。もっとも、虚無僧といっても、瞑想する僧侶ではない。彼は、まさしくそのままの姿で、ピアノに座り、弾く。こんな理想的な形でピアノに向かうピアニストなど、見たことがない。

 

パーセル、そしてルイ・クープランの曲。両足を曲げて構え、「私はペダルを踏みませんよ」という意思表示。指のみを使った完璧なコントロール。しかし、通常「完璧」という印象がもたらすはずのぎらぎらとした光沢感を、彼の演奏は微塵も感じさせない。これは、実は神業なのではないか。演奏を聴き進めていくうちに、誰もが思ったはずだ。

 

彼は曲ごとに紹介を入れながら演奏会を進める。それがまた、実に的を得たことを話し、何の飾り気もなくウィットを効かせ、少しの沈黙のあと、「うん、まあ、こんなところで」と言って弾きはじめる。この、「うん、まあ」の間に、彼の頭の中にどれだけの内容があふれ、流れていったことか。

 

めぐる季節と散らし書き こどもの音楽

 

インドの四季というのは、冬、春、夏、秋、そして冬、と考えるらしい。冬から冬へ。また、散らし書きというのは、古今和歌集を色紙に書くときに、行頭をそろえたりせずに散らして書く、というもの。ジョン・ケージの「四季」では、特定のモチーフが一定の比率で反復され、曲が進み、また最後に繰り返される。高橋悠治自作の「散らし書き」では、左右で単旋律が奏でられ、絡み、間を取り、そして終わる。私は、季節の描写とか、言葉のイメージとか、そういうものを音楽に無理やり結びつけるのは好きではないが、音楽に置き換えた、というのではなく、これは音楽であった。私の印象では。

 

子どものための、というのは、子どもが弾けるくらい簡単な、ということらしい。シンプルな条件で、作曲家が実験的な手法を試したりするのだとのこと。私は、プログラムの最後の曲、ストラヴィンスキーの「五本指」が気に入った。右手を5つの鍵盤の上に置いて動かさず、それら5つの音を組み合わせるだけで曲にする。あるいは、ちょっと動かしたりまた戻したりして。制約が芸術を生む。ストラヴィンスキーの見事な創造ではないだろうか。

 

高橋悠治の話を聞いていて気付いたことがある。「らしい」の多様である。既にいくつか書いたが、その他にも、「ブゾーニがアメリカに行ったときに、息子の友達の女の子のために書いた曲、らしい」とか、「サティーが、子どもには難しすぎると思ったから没にした、らしい」とか、「サティーの曲は、1曲目はドビュッシーの、3曲目はラヴェルのパロディー、らしい」とか。その話し方が何とも面白い。この、「らしい」が織り成す世界。作り話ではないにせよ、真や偽を超えたところにある世界。そして、音楽は鳴り始める。彼の演奏を駆り立てる想像力の一端を見た気がした。

 

アンコールに弾いた、ウェーベルンの「子どものための小品」。ウェーベルンがはじめて十二音技法で書いた曲、らしい。ウェーベルンは一体何を思って、子どものためにこんな曲を書いたのだろう?あっちやこっちやに飛び散る音、それが連打になり、和音になり、圧縮され、また散る。これぞ見事な散らし書き。聴衆からは驚きと笑いが漏れた。

 

終焉後、東京駅までタクシーに乗った。運転手は何も話さなかった。

2人のタクシーの運転手さん、どうもありがとう。今日はいい日でした。

 

高橋悠治が話した解説の箇所は、うろ覚えで、微妙に間違っているかもしれません。)

イーヴォ・ポゴレリッチ ピアノリサイタル(2016年12月10日、サントリーホール)

2016年12月10日、サントリーホールで、イーヴォ・ポゴレリッチのピアノリサイタルを聴いた。

 

概要

http://www.kajimotomusic.com/jp/concert/k=540

 

プログラム

ショパン: バラード第2番 ヘ長調 op.38     

               : スケルツォ第3番 嬰ハ短調 op.39

シューマン: ウィーンの謝肉祭の道化 op.26

モーツァルト: 幻想曲 ハ短調 K.475

ラフマニノフ: ピアノ・ソナタ第2番 変ロ短調 op.36

 

アンコール

シベリウス: 悲しきワルツ op.44

 

実は、私は彼に関する様々なエピソード、すなわち鬼才と呼ばれる所以、は耳にしているものの、録音・実演含めて、ほとんど彼の演奏を聴いたことがない。この機会に、一度実演で彼の演奏を聴いてみたいと思った。

 

1曲目のショパンのバラード第2番。出だしのコラール調の部分は、確かに遅く弾かれた。しかし、奇を衒ったものでないことはすぐに分かった。必要にして十分な間(ま)。弱音の中での微妙な音量の変化。彼が引き出した繊細な響きは実に美しいものであった。こういう感性が持てるとは。

 

メトロノーミックであるということには、意味はない。音楽における時間というのは伸縮するのだ。それは外在的な時間ではない、人間の感じる内在的な時間だ。ルバート。改めて、音を十分に咀嚼して音楽にするということと、その上での演奏の自由さということを思った。

 

彼のピアニスティックな技量は万全のもので、余裕さえ感じさせた。それは、例えばショパンスケルツォ第3番の中間部で、星屑が滝のように流れてくるパッセージの天国的な美しさで際だった。むろん、この曲でオクターブを連打するパッセージも聴かせどころである。ときに、若干低音を叩き過ぎる傾向はあったが、あれほどの強烈な響きを久しく聴いたことがなかった。背が高く、堂々たる体躯。背筋をぴんと張ったまま振り下ろされる腕。

 

個人的には、この日一番気に入った演奏は、シューマンのウィーンの謝肉祭の道化だった。次々と道化が登場する際の場面の切り替わり。過度に感傷的になることはない。しかし、時折効かせるウィットが心憎い。そして、一体どれだけ鳴り響くのだろうかと震駭させられるほどの、大音量の行進曲。総じて、徹底的にピアニスティックに、終始圧倒的な迫力でもって、シューマンの劇を演じて見せた。こういうシューマンの弾き方もあるのかと感心した。

 

彼のステージマナーというのは、傍若無人、むしろ聴衆の方を畏縮させるといった方がいいのか、楽譜は床に投げるし、最後には椅子を蹴ってピアノの下にしまい、「今日はおしまいだ」と示すあたりの態度は、なぜか野球の伊良部秀輝を思い起こさせた。お辞儀は非常に丁寧なのだが。よく分からない。ともかく、この日一番緊張したのは譜めくりの女性であったと思われる。彼女にはお疲れ様と言いたい。

 

といったわけで、演奏会後の感慨を大事に持ち帰るには、そう安易に彼に近づくのがよいとは思えなかった。つまり、無邪気にサインをもらおうとまでは思えなかった。しかし、彼にもし一言話して帰れるなら、感激を伝えたいとは思った。ほぼ満員の聴衆は、スタンディング・オーべーションで彼の演奏を称えていた。

理系の学問だからといって役に立つわけではない

詳しく知っているわけではないが、ざっくり言うと、大学の文系学部が縮小される方向にあるらしい。

 

たぶんこういう動きの背景に、理系の学問は役に立つが、文系の学問は役に立たない、という見方があるのだろう。しかし、それは本当か。私は、そういう考え方から変えていかないといけないと思う。こういったことを考えてしまう思考回路そのものを疑ってかからないといけないと思う。

 

大学に行ったことがある人なら分かると思うが、理系の研究にも、一体これは何の役に立つんだろうというようなものはたくさんある。もちろん文系の研究にもそういうものはあるのだろうが、言いたいことは要するに、理系の研究だからといってその特権性の上にあぐらをかいてはいけないということだ。どんな分野であっても、研究者が明確な問題意識をもって研究に取り組んでいるかどうかだけだという気がする。

 

それでも理系の学問が役に立つと思われている理由は、社会においてそれがハードなりソフトなりの製品をつくる科学技術につながるからだろう。そしてそれがお金になりやすいからだろう。しかし、これも我々が経験によって知っているはずであるが、人間が生きていく上で、こういった科学技術がすべてではないことは明らかではないか。それならば、文系の学問だからといって軽視されるのはおかしいではないか。

 

私は文系、理系というのは、人文科学か、自然科学か、つまり対象が人間なのか、自然なのかという違いがあるだけだと思っている。人間は自然を研究することによって、自らの生活を便利にしていくことを覚えた。それを否定するつもりはないが、人間が生きる上ではそれだけでは不十分で、人間が人間らしく考える、人間らしく生きるということについての学問がなければならないだろう。

 

最近はディープラーニングや人工知能の研究が益々盛んになり、機械を人間のようにしようとする傾向があるが、逆に人間の中身が機械のようになっていっている気がする。

宗教について

宗教とは、本来は「真理に対する畏怖」のようなものであって、体系や教義ではないと思う。少なくとも、私にはそのような考え方が最も納得できる。体系や教義だけを信じるというのは、どこかでだまされている気がする。その意味で、私には、日本古来の自然崇拝のようなものが最も宗教的に思える。

 

もっとも、これは私が日本人だからかもしれない。

 

宗教といういうのは土着、生まれつきのものであるべきなのかもしれないとも感じる。これは、この世に生を受けた自分に関する一つの文化、共同体のストーリーであって、自分の意志で選ぶべきものではないのかもしれないという意味である。